血餅を死守するあまり・・

 

グラグラになった我が右上6番目の天然歯を、金属製のヘーベル(挺子)で持ち上げて脱臼させ、すかさず鉗子(抜歯用のペンチ)でガッチリ掴むと、小さく円を描くようにして抜きにかかる——。

太い根っこでびっちりと密着している歯を抜こうというのだから、畑で大根を抜くよりも大変だろう。主治医も全力で歯を動かしているが、割れているにもかかわらず頑丈な我が6番目の歯は、すんなりとは抜けてくれない。

ミシミシと繊維が切れる音やバキッという脱臼の音が口腔内で響く——あぁ、骨を引き剥がすのはこんなにも重労働なのか。

 

口の中へ抜歯の器具が入ってから数分後、歯根破折していた奥歯は無事に取り出された。そしてもう二度と、わたしの一部として存在することはない異物として、トレーに敷かれたガーゼの上で静かに眠っていた。

スカスカになった右上の奥歯を舌の横腹で触れながら、なんともいえない喪失感に見舞われるわたし。とはいえ、自らの咬筋の力により歯を割ってしまったのだから、遅かれ早かれ時間の問題だったはず——。

せめてもの償いとして、採れたてのトウモロコシに齧りつきながら最期を迎えられたことだけが、奥歯に送るレクイエムとなったわけだ。

 

 

かつて親知らずを抜歯した経験のあるわたしは、その直後に友人とステーキを食べに行ったことを思い出した。

あの日は色々と事件が重なり、とにかく抜歯にまつわる奇妙な話のほうが先行してしまうのだが、なんだかんだで牛肉にかぶりついた咀嚼の感覚だけは鮮明に残っている。

そして、抜歯した4か所の穴に肉が詰まっている感触もいまだ健在で、歯を抜くと深くて大きな穴ができるのだ・・ということを経験したのである。

 

だが、実のところあれは恐るべき自殺行為だったということを、今になって知るわたし。どうやら、抜歯後にもっとも警戒しなければならない「ドライソケット」という状態に、一歩間違えば陥っていたかもしれないと思うと、さすがにゾッとする。

ドライソケットとは、抜歯後に傷口を覆う血の塊(血餅)が剥がれ、露出した顎の骨が細菌感染を起こした状態を指す。それにより、強い激痛が数日〜2週間以上続くのが特徴で、最悪の場合は痛みの長期化や、細菌が骨の奥まで侵入して顎骨骨髄炎などの重い骨の感染症を引き起こす恐れがあるのだ。

 

そのため、抜歯当日は「激しく口をゆすぐ」「食べ物や歯ブラシなど、固いものが当たる」といった行為は厳禁。特に、強く口をゆすぐと血餅が剥がれてしまい、それが原因でドライソケットを引き起こすことになるから、絶対にやってはならない。

同様に「ストローで飲み物を吸う」という行為も、陰圧の発生により血餅が剝がれる可能性があるため、当然ながら推奨できない。

(となると、コーヒーはどうなんだろうか。わたしのエナジードリンクである、コーヒーは)

 

主治医によると「コーヒーは大丈夫」とのことだが、それは単に「コーヒーならば口をゆすぐような飲み方はしないし、ゆっくりと啜るように飲むから血餅が剥がれる心配はない」と思っているからだろう。

ところがわたしは、コーヒーを味わうために口の中一杯に液体を溜めて、揺さぶったり転がしたりしながら飲む癖がある。その結果、自分では大したエネルギーを生み出していないと思っていても、口の中では想像以上の水圧や衝撃、さらに未知の潮力が発生している可能性がある。

もしそれで血餅が剥がれでもしたら、それこそ発狂しかねない——。

 

そんなわけで、ドライソケットに恐れ戦くわたしはコーヒーをあきらめ、柔らかい食べ物を中心に左側のみでゆっくりと咀嚼をし、決して患部に影響を与えない食べ方で食事を行った。

ちなみに、抜歯当日は風呂や運動といった血流が良くなる行為を禁止されているため、できることといえば食事のみ。そんなわたしは、時間をかけて慎重に咀嚼を繰り返した。

 

すると、気が付けば夜の22時になっていた。

 

思い返せば今日一日、午前中に抜歯をしてからずっとわたしは何かを食べていた。もちろん、少量の食べ物をかなりゆっくり噛み砕いていたので、通常の何倍も時間がかかったのは言うまでもないが、血餅の剥離を恐れるあまり想像以上の時間を咀嚼に費やしてしまったのだ。

しかも、ゆっくりと少量ずつ食べ物を口へ運んでいたことで、一度も満腹にならなかったことに気が付いた。要するに、満腹になるまで延々と食べ続けた結果、夜になってしまったというわけだ。

 

(まぁ、色々と仕方ないだろう・・)

 

 

こうして、ほぼ一日中「咀嚼」に時間を費やした、抜歯当日のわたしなのである。

 

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