うねりと凪

 

新たな課題として、ショパンのノクターン9番(Op32-1)を与えられたわたしは、曲がもたらす「おかしさと意味不明さ」に絶句した。穏やかに楽しく、それでいて順調に進んでいたものが、まるで夢から覚めて現実を叩きつけられたかのように、突如破壊される——この時、ショパンに何が起きたというんだ。

演奏するにあたり、何かをイメージしたくても途中で何度もハッとさせられる唐突な落差は、どう考えてもメンタルを病んだロマンチストの男性にしか思えない。だが、この曲にはもっともっと伝えたいであろう想いやエネルギーが詰まっているはず。それを想像して音に変換しなければならないのに、不肖わたしにはそれができない。

 

こうして、なんのイメージも持てないまま「メンヘラなロマンチスト」くらいの感覚で譜読みを終えたわたしは、師匠の元へと向かったのである。

 

 

最後のフレーズを弾き終わった瞬間の虚無感といったら、言葉では表しにくい絶望に見舞われていた。

焦りと恥ずかしさで滝汗状態のわたしは、まるで”クッション遊びに夢中になるあまり派手に食い千切ってしまい、部屋中が白いコットンまみれとなっているところへ飼い主が戻って来て、ドアが開く音がしたので恐る恐る振り返った犬”のような心境で、静かに師匠のほうへと体を向けた。

すると師匠は・・こちらも放心状態というか、なんとも絶望的な顔をしているではないか!!あぁ、これはこれで正しかったのだ。師匠が啞然とするほど間違った演奏をした自覚はあるのだから、そういう意味では正しかったのだ。

 

重い腰を上げてこちらへ歩いてくる師匠の表情は、むしろ彼女の心情を表すほうが表現しやすいと思えるほど苦悩に満ちていた。そして師匠は静かに語り始めた。

「冒頭の左手の動き、まるで左右に波打っているかのように始まるでしょ。右手も同じく、次へ次へと繋がっていく推進力があって、ときに風速が強まったり弱まったりしつつも、うねりや凪を繰り返しつつ、最後は遠雷からのクライマックス・・そんなイメージなんだけど、私にとっては」

この解説を聞いた際の衝撃といったら、フライパンで頭を叩かれたかのようなショックだった。言われてみれば確かに大海原で絶えず波がユラユラしており、派手に白波を立てたかと思えばパッと凪いでしまう、というイメージはこの曲を如実に表している。

 

要するに、漠然と外面だけを見れば「メンヘラなロマンチスト」かもしれないが、曲の内側から表現するとしたら、師匠が言うとおり常に動き続ける自然な何か——やはり、海の波がしっくりくるわけだ。

 

だが、どうすればそんなイメージが湧いてくるのだろうか。少なくとも今のわたしならば、どれほど時間を与えられて考え続けても大海原は浮かんでこない。となると、この先もずっと師匠の手ほどきがなければ、わたし自身が曲をイメージすることなどできないのではなかろうか。

そんな恐怖を感じたわたしは、師匠に「なぜこの曲に波のイメージを抱くことができたのか」を尋ねてみた。すると彼女は、一冊の写真集を取り出してきた。

「これなんか見てるとね、いろんなことが思い浮かんでくるのよ」

それは、写真家・梶井照陰氏の写真集「KAWA」だった。横長の判型でできたカバーを開くと、左右2ページを使った見開きの写真が収められており、そこにはタイトルである「川」の写真がズラリと並んでいた。日本のみならず、ブラジル(イグアスの滝)、中国、オーストラリア、カナダ、モロッコ、ジンバブエなど、世界各地の川を撮り続けたのだそう。

 

『太古から私たちの生活に当たり前に存在している「川」は、一方で、三途の川がその意味を表すように、こちら側とあちらの側の境界にまたがる特別な存在でもあります。』(出版社説明文より引用)

大雨でも降らない限り河川など意識することのないわたしにとって、国境や県境としても使われている川の存在は当たり前だが大きな価値があり、そんな川の色々な側面を切り取った写真集からは、水が持つ躍動感や流水音に加えて、冷たさや衝動までもが伝わってくる——あぁ、こういうところからインスピレーションは生まれるのか。

 

文芸や写真の恐るべき特徴は、物言わぬ彼らから受け取るもののデカさである。見えない相手の様子や心情を言葉で表し続けたものが文芸であり、変化し続ける一瞬を切り取ったものが写真であり、それぞれの作品から何をどう感じるのかは、受け手であるわれわれ次第。

そして、二次元の感情や臨場感を脳内で再生する経験が豊富であればるほど、さらにほかの何かへ変換すること——例えば、楽器を使って表現することが容易になるのだ。

ところが、テレビや動画といった受動的な媒体に身を委ねていると、脳が自ら創造(想像)することを放棄するため、いざ何かをイメージしようとしても思考停止となってしまう——そうか、わたしに足りなかったのは、物言わぬ芸術作品に触れて、なにかを感じたり手に入れたりする経験だったのだ。

 

ウォーリーを探す気がなければ、見えていても見つけることはできない。

無意識にただ触れているのと、自ら掴みにいくのとでは大きな違いがあるように、わたし自身が様々な芸術に触れて感化されることで、ノクターン9番の解釈というかイメージが形成できるようになるのだろう。

 

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