逃げてはならない、ポリリズム。

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やはり「騒音のない状態」というのは素晴らしい。エアコンや除湿器の動作音、はたまたトラックやバイクのエンジン音といった生活騒音は仕方がないとして、それ以外は無音という静まり返った深夜の静寂は、ヒトの脳を強制的に「思考の時間」にあてがうパワーがある。

そして嫌でも脳内を埋め尽くすのは、練習中であるピアノ曲の「とあるフレーズ」だった。左手が4つの音を刻む間に、右手は3つの音を均等に当てはめるのだが、イメージする音がどうしてもぎこちない——ダメだ、これがクリアにならなければいつまで経っても弾けるようにはならない。

 

前回のレッスンで、先生から「この部分、やっぱり左手と右手が合ってないように聞こえるのよね・・」と注意を受けた箇所がある。三連符でメロディーを奏でる右手と、それを支えつつバス(低音)を効かせる左手のフレーズなのだが、いかんせん3つの音と4つの音を均等に割り振る必要があるため、「数学的な左脳と表現力的な右脳とを同時に使う」という、なかなか高度な芸当が求められる部分なのだ。

初期の頃は、テンポを緩めて確実に3つと4つを打つことを叩きこみ、それができるようになると徐々にメロディーを引き立たせる練習へと進んでいった。そしていつしか、メロディーだけをしっかりと奏でるようになり、左右のバランスが崩れていることに気付かなくなった結果、それが「自然なフレーズ」だと勘違いするようになったのだ。

 

ピアノというのは本当に不思議な楽器で、自ら打鍵して音を出しているというのに、その音をしっかりと聞いていない・・というか、脳内で想像した「勝手な音」で上書きされる傾向にある。無論、打鍵による音を聞きながら弾ける者(ピアノが上手いヒト)も大勢いるが、趣味でピアノを習っている程度だと自身の音をきちんと把握しながら弾ける者・・というのは少ないように感じるし、わたしも漏れなく後者というわけだ。

だからこそ指導者の存在が重要となる。自分では勘違いしている、またはそう思い込んでいる音や弾き方を、指導者が持つ「正しい耳」によって指摘および修正することこそが、お金を払ってレッスンを受ける価値といえるのだ。

 

そしてわたしは、数学的に区別しなければならない箇所をそれっぽくまとめあげることで逃走を試みたが、「そんなことはさせまい!」と見事に捕まった・・というわけだ。まるで、原付の二段階右折を無視して去ろうとしたところ、待ち構えていた警察に捕まったかのように——。

 

それにしても「音楽」というのは恐ろしいもので、なんだかんだ言ってもメロディーに勝るものはない。そのため、繰り返し弾いているうちにメロディー優先となり、いつしか数学的な部分を蔑(ないがし)ろにするようになる。

だが、本当に聞かなければならないのは・・いや、聞かせなければならないのは、楽譜に書かれた音符とリズムを正確に再現した音だろう。つまり、「それっぽく弾いた」とかではなく、正確に刻まれたリズムと音を奏でなければ意味がないのだ。

(こういう細かい部分をすっ飛ばして、なんとなくまとめ上げてしまうが私の悪い癖)

 

おそらく、本当は自分自身でも分かっているのだが、ちゃんとできないことが怖いのかもしれない。もしくは、ちゃんとできるようになるまでの努力が面倒なのかもしれない。とにかくわたしは、細部にまで目を通すことから逃げる傾向にある。

これはピアノに限った話ではなく、自身の性格や行動に至る全てにおいて当てはまることだ。なんとなく出来ればそれでいいや——。この繰り返しで、わたしの人生は後半へと差し掛かっているのだから。

 

 

などとあれこれ考えるうちに、いつの間にか夜が明けてしまった。

だが、脳内では未だに八分音符の「三連符」と、十六分音符の「4個の音」のポリリズムが不完全に繰り返されている——。今すぐにでも鍵盤を使って音にしたいところだが、これをするとまた「メロディーに逃げる悪癖」を発動しかねない。だからこそ、どうにかして脳内で完成させなければならないのだ。

 

音を出さずとも数学的に割り振ることができて、かつ、音楽的に表現できるイメージが持てたならば、実際に打鍵せずとも間違いなく弾けるようになる——これは、紛れもない真実である。

(要するに、ピアノ練習というのは脳トレなのだ!)

とはいえ、今日も朝から予定があるので、とりあえず仮眠をとることにしよう。

 

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