事実を知ることが正義に繋がるわけではない、と思うのだ。

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アルコールの影響力って凄いな・・と感じるのは、大量に摂取していようがいまいが、どことなく雰囲気が違ったり言葉の端々に勢いがあったりと、本人は平静を装っていてもどことなく違和感があるところだ。

稀にまったく変化のない者もいるが、日本人は往々にしてアルコールの影響を受けやすい民族のため、酒臭くなかったとしても「ん?なんか違う」と気づかれがち。ところが、当の本人は「そんなことはない、いつもと同じだ!」と言い張るから厄介なのだ。

たしかに、使っている言葉(単語)はいつもと同じかもしれないが、語気が強かったり粘着質気味になったりと、若干の差異があることに当人は気付かない。だが、シラフにせよアルコールを含んでいるにせよ、そのちょっとした"嫌な感じ"を相手は鋭くキャッチするのである。

(あ、こいつ酒のんだな・・)

口にせずともわたしのこの予想は百発百中であり、そんな時はなるべく会話をせずに無視することで、こちらが被るであろう不愉快な思いを回避するようにしている。

なんせ、酒を飲んだことを確認したところで、血中アルコール濃度が下がるわけでも麻痺した中枢神経が正常に戻るわけでもないので、その問いかけに価値はない。それどころか、仮に否定でもされた場合には「相手に嘘をつかせる」ことになるため、なるべくそういったソフトな拷問はしないようにしているのだ。

 

これは飲酒の話に限らず、相手との関係性を維持したいならば"核心を突くところまで追求するべきではない"と、個人的には思っている。なにやら怪しい動きをしているが、それを言い当てたところでハッピーな結果を招かないならば、あえて確認する必要はないだろう。

その事実確認によって何が得られるのかというと、「暴かれた隠し事を前にして、気まずい雰囲気の当事者が佇んでいる」というだけのことだからだ。

そもそも、我々が"怪しい"と感じることのほとんどは、まず事実である。床の傾きがたったの1度だったとしても、ビー玉は勢いよく転がり睡眠障害など重度の健康被害をもたらすわけで、ほんのちょっとの傾きでさえ重大な影響を及ぼすのだから、なんとなく怪しい・・が怪しくないわけがないのだ。

 

ましてや「虫の知らせ」や「第六感」といった、理屈を超えた不思議な感覚を内包するニンゲンにとって、「なんか怪しい」が気のせいであるはずもない。違和感というのは、確実な変化であり異質の現れである——と、わたしは確信している。だからこそ、違和感を相手にぶつけることで結果的に嘘をつかせるか、あるいは事実を認めさせて失望するか・・の二択しかないというのは、あまりに不幸ではなかろうか。

要するに、「知る権利」などと偉そうに主張する者もいるが、「知らないほうが安定する」のならば、あえて知らせる必要などないのである。

 

・・あまり関係のない話題ではあるが、国民民主党の玉木代表の不倫報道など、どうでもいいことではなかろうか。むしろ、女性関係のスキャンダルで足を引っ張ろうとするのは、そして実際に引っ張られてはしごを外されるのは日本くらいだろう。

海外の首相や大統領など、選挙のたびに挙ってスキャンダルが報じられるが、それはもはやネタ枠である。逆に、スキャンダルが上がらないほうが別の疑いをもたれる可能性があるため、そっちが"お盛んである"というのは元気な証拠ともとれる。

そしてなにより、異性関係で被害を被るのは当事者の家族や恋人だけ。罪に問われるような悪事を働いているわけでもないのに、脱税や裏金と同等に責め立てられるのはむしろ滑稽。——いいじゃないか、掲げた政策を遂行し明るい日本を築いてくれるのならば、オンナの一人や二人で道を閉ざされるなど、それこそ国益を損ねる行為といえる。しかも、報道がなければ(もしかすると)身内も知らないまま過ごせたかもしれないのに、それをあえて知らせる必要などあったのだろうか。

 

・・まぁ、他人のことなどどうでもいいが、とりあえずわたしは"相手に嘘をつかせる局面"だけは避けたいと思っている。なぜなら、事実だけが正義ではない——というのが持論だからである。

 

Illustrated by 希鳳

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