"ながら練習"という愚行から覚醒した瞬間

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「ながら作業」というのは、なんとなく気分もいいし効率的だと思われがち。しかし、はっきり言ってその時間は無駄である。

なんだかんだで人間は、一つのことにしか意識を傾けることはできない。そのため、複数の作業をこなした結果、物理的に遂行あるいは完了しても、脳内には一つの行為の記憶しか残っていないのだ。あるいは、いずれの記憶も残っていないかもしれず、とにかく"ながら作業"で身につくものなど皆無といえる。

 

・・などとカッコつけたことを口にするが、恥ずかしながらわたしこそが、集中力ゼロの"ながら信者"である。なんせ外出時は常にだし、仕事をするにも飯を食うにも、ピアノの練習をするにも必ず「なんらかの音楽やアニメ」を流しているのだから。

わたしが音楽やアニメを流すのは、ある種のホワイトノイズとして捉えている側面はある。とはいえアニメの続きは気になるし、シーンとしているとちょっとした生活音が気になるし、なんだかんだで音や映像に意識が傾いているのは事実。

 

そんなこんなで、ひたすら歩くとか単なる数字入力作業と同様に、ピアノの練習で「指の運動」的な動きをするとき、わたしは譜面台にスマホをセットしてアニメを視聴しながら指を動かしていた。

なぜなら、指の準備運動など無意識にでもできるからだ。ひたすら似たような動きとリズムの音型を繰り返すだけなので、むしろ目を閉じて半分寝ながらでもこなせるわけで。

 

そんな「ながら練習」を続けてきたわたしは、今日、とある一つの大きな変化に気がついた。

 

 

(指先で弾かずに、第三関節から動かす・・って、もしかしてこういう感じなんじゃ——)

とあるピアニストのYouTubeを見ていたわたしは、ふとこんなことを思った。

 

ここ数か月間、指の脱力をモットーに練習に励んできたわたしだが、なんとなくできることもあるが、全てそうなるわけではなかった。

そもそも20年以上ピアノから離れていたわけで、そう簡単に改善されるはずもない。おまけに、ピアノとの相性は最悪といえる柔術を続ける以上、指への負担が消えることはない——そんな言い訳を胸に、できない現実を堂々と受け入れていた。

 

とはいえ、暇があれば常に考えてはいた。指を速く動かすために指の力を抜く、そのためにも指先を動かすのではなく、根元のMP関節を使うことで先端をブラブラさせる——。

イメージはできても、実際に指を鍵盤に置くとその通りにはいかない。それでも繰り返し練習するうちにイメージは消え、もはや何をやっているのか分からなくなる始末。

(・・・まぁいっか)

そして、できない現実を謙虚に受け止め、あきらめるための正当な理由に変えていたのだ。

 

しかし今、「これじゃないか?」という感覚を掴んだ気がする。この感じで弾けば、指先を脱力した状態で弾けるはず——。

早速、ピアノの蓋を開けてイメージを指先へ落とし込んでみる。ちょっと違う、いや違う、うーんこんな感じか、いや違うな・・・。

 

イメージと打鍵が一致しないまま何度かトライしていたところ、あるとき初めてイメージ通りに指を動かすことができた。

(・・・あ、これだ!!!)

その瞬間、今更ながらわたしは痛感した。指を動かすのは指じゃない、脳なんだ・・と。

 

今まで、「単なる指の運動だから」と舐め腐って、動画を見ながら練習してきた自分を呪った。指というか体を動かすということは、脳の指令によってなされる業だということを、すっかり忘れていたのだ。

いや、忘れていたのではなく、そこまで気が回っていなかったのだ。なんとなく指先に集中し、それをどうにかすることばかり考えていた。無論、その意識も必要だろうが、正しいイメージを脳に叩き込み指令を出させるまでの過程は、一朝一夕にはいかないのだから。

 

それなのに、結果がすぐに出ないからといって、成長しないことを何かのせいにして努力を放棄する怠慢、言い訳の余地もない。そして、脳と指の神経をつなぐ作業が今日まで遅れたこと、それは「ながら練習」の弊害でしかないことを、真摯に受け止め反省しよう。

 

 

・・という素晴らしい感じの内容をタイピングしながらも、チラチラとヒロアカに目を奪われる、懲りない愚か者がここにいるのであった。

 

Illustrated by 希鳳

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