今さらではあるが、一本でも指を怪我するとピアノが弾けなくなるということを、まじまじと体感しているわたし。
今までは「指を怪我したら、それ以外の指で弾けばいい!」と豪語していたのだが、実際のところそれは「譜面どおりに弾き切る競技」であり、誰かに音楽を届ける・・という趣旨からは大きく外れるものだった。
(そんなことにも気づかずに、偉そうに自慢していた自分が恥ずかしい)
師匠にピアノを習い始めてもうじき二年が経過するが、思い返せば当時のわたしにとって、音を出すというのは「指先と鍵盤による、表面上の浅い関係性」だった。だが、今となっては「体内から漲(みなぎ)る感情を、指先を通じて鍵盤さらに弦まで届ける」という意識に代わっていった。
無論、それができるのかと言われれば、「ごく稀にできる時もある」という答えになってしまうが、知らなかった頃に比べれば知っている今のほうが明らかに「音楽」に近づいているだろう。
そして、弦を叩く楽器、すなわち”打楽器の仲間”であるピアノを用いて豊かな音を出すには、ハンマーが弦に触れる瞬間が重要となる。
和太鼓やスネアドラムを叩くとき・・いや、棒で机や缶を叩いて音を出すとき、棒(ばち・スティック)をギュッと握ることはない。実際にやってみると分かるが、たとえば細かいリズムを刻むのに、力強く握っていたのでは腕がもたついて叶わない。
また、大きい音を出す際も、力を使うというよりは瞬発的に棒で打面を打つ感じであり、いずれにせよ必要最低限の力で握るだけで十分なのだ。
その先は感覚的な話になってしまうが、自分が出したい音(響き)をイメージして具現化させることで、表情豊かな演奏へとつながっていく。
そして、思い描く「イメージ」を棒に伝えるには——さらに棒を通じて打面へ伝えるには、小手先の力ではなく体の深部から絞り出すような感覚を伴うため、ここについては体感できるまでチャレンジし続けるしかないだろう。
このような流れで、師匠が描く「音楽」や「演奏」が出来上がっていくのだが、先ほどの「太鼓」をピアノに、そして「棒」を指や腕に置き換えるとあら不思議!? 両者とも全く同じことがいえるから面白い。だからこそ「ピアノを弾くには脱力しなければならない」と、指導者たちは口酸っぱく言うのだ。
もちろん、本気で脱力したのでは鍵盤を押すことすらできないため、音を出すための必要最低限の力以外は使わない・・というのが正しい言い方。そして、そのような効率的かつ繊細な動きを繰り返すには、道具である”指や腕”が健全な状態であることが必須となる。
少しでも痛みや違和感を覚えると無意識に身体が反応してしまい、他の指や動きにも影響が出る——。これがもしも指先だけの話ならば、痛めた指以外の指で代用すれば済むのだが、先に述べたように「全身を使って弾く」ということは、身体の芯(場合によってはつま先)から指先まで、滞ることなくイメージやパッションが流れる状態でなければならない。
例えるならば、ホースの途中を踏んでつぶしていたのでは水が十分に流れないのと同じで、フィジカルのみならずメンタルも健康であることが、音楽を演奏する者において最も重要な要素・・というか「必要な準備」なのである。
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そんなわけで、右指の痛みが消えるまでは大人しく左手の練習をしようと、今さら「無理をしてもいいことはない」という現実に気付いたわたしなのであった。










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