(あぁ・・そもそも練習方法が間違っていたんだ)
最初の音であるファ#のオクターブを打鍵した瞬間、わたしは取り返しのつかない後悔に苛まれた。
もうすでに演奏は始まっているのだから、今さら悔んだところでどうしようもない。だが、今までやってきたことがいかに無駄で無意味であったのかが如実に示されたことで、己の浅はかさと成長のなさに絶望するしかなった。
これは自分でもわかっていた。弾けない原因が何であるのか、そしてどんな練習をしなければならないのか、本当はわかっていた。それなのに、できないことと向き合わず都合よく逃げた結果がこのありさま——自業自得も甚だしい。
そして、主題となるメロディーが登場する9小節目の時点で、これまでピアノの練習に費やしてきた時間が、どれほど自己満足でしかなかったのかを思い知らされた。
あれほど師匠から「音で語りなさい」「音色や響きをしっかりと聞きなさい」と言われ続けたにもかかわらず、わたしは「楽譜どおりの音程で弾ければいいや」と思っていたのだ。無論、そんなつもりは微塵もなかったが、結果としてそのような演奏になっているのだから言い訳の余地はない。
そんなわたしは今、サントリーホールのブルーローズ(小ホール)でフルコンのスタインウェイの前に座っている。そしてこれが、発表会当日ではなかったことに心の底から感謝するのであった。
*
残すところあと一カ月ちょっとに迫った、二年に一度のピアノ発表会。わたしは「どうせ弾くなら、自分が弾きたい曲を選ぼう」ということで、身の丈に合っていない超難曲を選んだ。
もちろん、難しい曲を選びたくて選んだわけではない。わたしの好きな曲が難しかっただけのことで、得てして「弾きたい曲」というのはそうなる傾向にあるのだ。
ちなみに、ピアノを弾くにあたり必要な要素は三つある(と、わたしは思っている)。
まずは「基本的な動作である指や腕・体の使い方といった自分自身のコントロール」、そして「曲を弾きこなすだけの技術力」、さらに「誰かへ届けるまたは聞いてもらうための表現力」の三つだ。
一つ目の「基本的な動作」については、そもそも無意識でできなければならず、パソコンのキーボードで例えると「どこにどの文字があるか」や「どのあたりに指を載せておけばタイピングしやすいか」という感覚だろう。
タイピングはブラインドタッチが大前提であり、キーボードを確認しながらではとてもじゃないが時間が足りない。さらに、スムーズなタイピングを行うには「指使いや力の抜き方」を知っておく必要があるだろう。さすがに、ガチガチの指と腕に加えて人差し指一本・・では、スムーズなタイピングは到底無理。よって、いかに脱力した状態で10本の指を動かせるかがカギとなるのだ。
二つ目の「技術力」に関して、これはいかにタイポ(タイプミス)なく文字入力ができるか・・に相当する。
動作がゆっくりであれば、タッチするべきキーボードへ確実に指を載せられるが、素早いタイピングとなるとちょっとした打ち間違いが起こりがち。それをミスなくスピーディーにこなせるテクニックと経験があれば、パソコン作業が捗るのは当然といえる。
三つ目の「表現力」は、さすがにパソコンのキーボードでは難しいが、たとえば「おむすびの握り方」だったり「ヘアスタイルの整え方」だったり、「こういう形にしたい」とか「こういう雰囲気を出したい」というイメージを具現化することが、感覚的には近い気がする。
これがもしも、まるでイメージが湧かない・・となれば、結果として「単なる米粒のかたまり」や「ただ単に濡れた髪を乾かしただけ」にしかならない。だが、そこへ少しでも気持ちのエッセンスを加えることができれば、それこそ他者へ何かを伝えることができるのだ。
このような、三つの異なる要素の組み合わせでピアノの演奏は成り立つのだが、当然ながら「豊かな表現」をするには、その前に技術面をクリアしていないと難しいし、技術面をクリアするには、基本的な動作が無意識にできなければならない。
それなのにわたしは、ステージ上のスタインウェイを前にして「基本的な動作」がそもそも出来ていないことを思い知らされた——いや、そんなことは言われなくてもわかっていた。だが、自分にとって都合のいいように・・要するに、たまたま上手くできたことを「常にできるはず」と思い込むことで、出来ていない部分から目を反らし、実力以上の過大評価をしていたのだ。
こうして、ミスをしても見て見ぬふりを続けることで、脆弱な土台はどんどんグラついていった。それでもどうにか取り繕い、表面上の薄っぺらい見栄や欲望を重んじた結果、「本番」という重要な局面で、土台は崩れ建物は倒壊したのだ。
わざわざ足を運んでくれた友人や、演奏の助言をくれるピアニストの先生を前にして、なぜわたしは”完成間近の建物”を披露するのではなく、”建設途中の張りぼてが崩落”する場面を見せなければならなかったのか——それは紛れもなく、練習方法が間違っていたからである。
わたしがするべきことは、全体的に「なんとなく弾けてる風」の演奏を極める練習ではなく、基本的な手指の動きや技術面で不足している部分を隈なくつぶすことだった。
それなのに、出来ていないことが分かっているにもかかわらず、そこから目を反らして「いつかできるようになる」とか「本番は上手くいくだろう」などと、理解不能な勘違いを何十時間・・いや、何百時間と積み上げることで、取り返しのつかない無駄かつ無意味な時間を費やしてきたのだ。
そんな深い後悔とおぞましい愚かさを、最初のオクターブで痛感させられた。
(あぁ、客席の皆さんに今すぐ土下座したい気持ちで一杯だ・・)
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「本番に勝(まさ)る練習はない」
何百回、何千回と練習を重ねたところで、たった一回の本番には勝てない。そして本番で後悔しないためには・・いや、本番を存分に楽しむためには、それ相応の練習が必要なのだ。
繰り返しになるが、「分かっているのにやらない」というのは愚の骨頂。時間には限りがあることを肝に銘じて、残り一カ月ちょっと、大外からの怒涛の捲りで汚名返上を誓うのである。




















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