妄想とともに貪る高級パン

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わたしは今日パンをもらった。しかも、でっかくてずっしりとした食べ応えのあるやつだ。

これがたとえ一欠片のパンだったとしても、わたしはとても嬉しい。なぜならパンというものは、人間に不思議な幸せを与えてくれる食べ物だからだ。

ならば「おむすびはどうか?」という質問に対する答えは、もちろん「嬉しい」である。おむすびをもらって嬉しくない人間などいないわけで、具材の入っていないシンプルな塩むすびであればあるほど、贈り主の愛を強く感じるものである。

 

それにしても、わたしの傷心を癒すかのようにパンの芳ばしさが胃袋に染みわたる。空腹も相まって、一口、また一口と齧りつくたびに芳醇なバターの香りが周囲に漂う。おかげで、乗り合わせた乗客らの鼻がピクピク動いているではないか。

そう、ここはJR線の車内。そして顔面が隠れるほどの大きなパンにかぶりつくわたしを、羨ましそうにチラ見をする乗客たち。――そういえば彼らは、いったいどちらに興味を抱いているのだろうか。

というのも、これはかの有名な「Joel Robuchon(ジョエル・ロブション)」のパンなのだ。目印となる真っ赤な紙袋が、乗客らの目に眩しく写っているはずである。

 

とはいえ、ロブションを知らない人間にとってこの紙袋の威力はゼロなわけで、だとするとやはり大きさが魅力となるだろう。そりゃそうだ、こんなデカいパンに躊躇なくかぶりつけるラッキー人間は、そういるものではない。

フォカッチャのようなモッチリ感を伴うビッグパンを両手で支えると、大口を開けてガブリとやれば、じゅわっと染み出るバターと小麦の甘み。――あぁ、なんて美味いんだ。

 

そもそもパンは、貧乏人にとっては「ご馳走」ともいえる存在である。欧米の昔話などでも、凍える手でちぎって食べるのはパンだし、アニメ・チェンソーマンでも、貧乏生活を送っていた主人公のデンジは一枚の食パンをポチ太と分け合って食べていた。

つまり貧しい人間が口できるのがパンであり、さらに言い換えると、パンを口にすることができるということは、貧乏ながらも最高の贅沢ということなのだ。

 

ところが今のご時世、高級生食パンやら高級クロワッサンやら、パンが高級品に成り上がっているではないか。材料は小麦に水にイーストといった単純なものにもかかわらず、一斤五千円もする超高級食パンまで登場しており、「貧乏の象徴」というポジションが危うくなりつつある。

 

それでもやはり「パンがもたらす幸福」というのは、金持ち貧乏関係なく受け取ることのできる、不思議な恩恵だといえる。どんなシチュエーションであっても、パンが求められる場面でパンが現れたなら、それ以上の喜びはないのだから。

さらにおむすびの場合、パンに比べるとシチュエーションが限定されるという短所がある。極論をいうと、パンならば地面に落ちたとしても拾って食べられるが、おむすびではそうもいくまい。

また、パンはフルーツとの相性もいいが、おむすびに果物を入れても微妙な感じとなるなど、使い勝手の面でもパンは優秀な相棒として責務を全うしてくれるのだ。

 

押しも押されぬ貧乏の象徴・パン。ところが、わたしが手にするこちらは、ジョエル・ロブションという高級ブランドのパンであり、決して貧乏人の食い物ではない。

とはいえ今のわたしは、心の卑しい醜い負け犬である。そんな下等な生き物がロブションのパンを頬張ることなど、あってはならないモダン・フレンチへの冒涜といえる。

しかしパンが美味いことに変わりはなく、電車内であろうが咀嚼を止めることはできない。

 

(・・・ま、いっか)

 

あらゆる意味で貧しくも卑しいわたしに対して、心の豊かな友人が選んでくれたギフトであるがゆえに、その本質は贈り主に帰属する。

そして何よりこのパンは美味い。とどのつまりは、この一言に尽きるのだ。

 

 

こうして、とりとめのない意味不明な妄想を抱きながら、わたしは黙々とパンを頬張るのであった。

 

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