猿真似

 

(ならばいっそのこと、根本から考え方を変えてみよう・・)

 

できないことを「できない」と諦められるならば、どれほど楽だろうか。往生際の悪いわたしにはそれができないため、長いことイライラしながら嫌な思いとともに生き続けるのだが、苦行に耐えたからといって結果が手に入るわけではない。

むしろ、嫌な思いばかりが積もって現状は変わらないという、最悪のパターンに陥るのが常。そう、わたしは一瞬で変わるタイプのため、何かに挑戦してみて「すぐにできない」あるいは「劇的に変わらない」場合、どれだけ続けても変わらないのだ。

 

これは、客観的にみて変化があったかどうかもそうだが、自分自身で「あ、これか!」という閃きのような感覚の有無が重要。さっきまでとは違う「何か」を掴んだならば、その後は一気に変わることができる。

そんな分かりやすい特徴があるからこそ、わたしの左手指が動かないことについて、ピアノにおける一般的な練習方法とされる「ものすごくゆっくり弾く」とか「色々なリズムで弾く」といったやり方が、無意味であることも最初から分かっていた。

とはいえ、その代替案があるわけでもなく、どうしたら改善されるのかを手探りで探すしかない、暗黒の闇に一人ポツンと佇んでいたのだ。

 

そんなわたしは、今までの固定観念を捨てて「猿真似(さるまね)」に徹することを決めた。

 

これまでは、ピアノという楽器をどう奏でるかを考えていたが、そもそも不自由な指をもって完璧な演奏などできるはずもない。にもかかわらず、気持ちだけは一丁前に演奏家気取りだったわけで、地に足がついていないにもほどがある。

だったら、「できない理想を追い求めるよりも、それっぽくできる現実から始めよう」・・なぜかふとそう思ったわたしは、ある程度自由に動く右手の感覚を左手にコピーすることを決めた。

 

左手のことを考えると、指の変形や怪我のせいで十分に機能していないため、いつまで経ってもその状態が変わることはない。むしろ、一生このままである。

だったら、左手の状態は無視して、右手で弾いたときの感覚をそのまま真似したらどうだろうか——突如このような考えに至ったのは、文字を書くのと同じだと思ったからだ。

 

右利きでも左利きでも、書きやすさに違いはあれど文字を書くことはできる。たとえミミズが這ったようなヨボヨボな形状であっても、文字として完成させることはできるし、それを続けていれば両手で書けるようになる。

幼稚園や小学生の頃、ひらがなや漢字を練習する際に薄い点線で書かれた文字をなぞって覚えるやり方があったが、あれと同じように右手で弾くときの感覚を左手で真似をしてみた。むしろ、手指だけでなく手首や肘の使い方、そして胴体や足の力加減など、右手で弾く際の自分の在り方を細かくチェックして左手でトレースしてみた。

すると・・あぁ、なんとなくできるじゃないか!!

 

当然ながらスラスラ弾けるようになったわけではないが、今までのような指の強ばりや硬直する感じが消えた。まだまだおぼつかない状態ではあるが、それでも明らかに変わったのだ。

 

ピアノを上手く弾こうとか、感情を込めて演奏しようとか、そんな大それたことはわたしには無理である。今はただ、右手と同じように左手を動かせるようになることを目標としよう。

そのためには「猿真似」で十分。ただひたすら同じことができるようになれば、それでいい。むしろ、そこからが新たなスタートになるわけで、まずは左手の自我を奪いただひたすら右手の真似をしよう——。

 

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たとえ指に障害を抱えたとしても、やりようによっては指を動かすことはできる。指自体を動かすのではなく、その他の関節や筋肉を使うことで代替できるからだ。

そして、カッコつけた言い方をすると、「絶望の淵からでも這い上がれる、未知の可能性をヒトは秘めているのだ」ということを知った、長月の夜であった。