福引き抽選会のガラガラ・・いわゆる「抽選機」から運命の玉が出る瞬間だったり、万馬券となる大穴の馬がゴール直前でもの凄い末脚で追い込んできた瞬間だったり、そんなときに「腹の深部」に力が入る感覚がある。
あれは、腹筋や腸腰筋といった物理的に使える筋肉ではなく、いわゆる腹圧というのだろうか。実際に筋肉を硬直させているというより、緊張や興奮により腹内部の圧力が高まり力が入る現象だ。
あれと似たような感覚として、恋愛アニメ・・いや、実際の恋愛でもいいのだが、恋愛対象者と上手くいくシーンでキュンキュンしてしまうのも、腹圧とは違うが胸の深部になんらかの圧力(衝撃?)を感じる点で近いものがある。
これらの感覚は、そのシチュエーションにならなければ起こらないものであり、物理的な力というより感情的なものがトリガーとなり湧き起こるため、言い換えると「無意識の力」といえる。
その力こそが、ピアノを弾く際にわたしが求める力だった・・ということを、今日知ったのである。
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新たな感覚というより、昔からすでに身についていたが改めてそれを再現するとなると上手くいかなかった・・という行為を、ようやく自力で引っ張り出せるようになったわたし。
それは「力といえば力」なのだが、筋肉によるものではなく感情による圧・・というほうが近い感覚だった。
たとえば試合の応援で力が入るとか、成功を祈って力が入るとか、そういった類の「力」であり、決して筋トレで身に付くものではない。だが、たしかに力が入るわけで、しかも起因となるのは感情——ここが一般的な筋肉とは異なる所以であり、物理的にトレーニングできないからこそ難しい。
そんな微妙な「力」を自力で出し入れできるようになったことで、これまで師匠に言われてきた言葉の数々がすべて繋がった。
「ピアノを弾く」という行為は、「鍵盤楽器を演奏する」ことを意味するが、鍵盤楽器であるピアノをさらに正確に示すと「鍵盤打楽器」ということになる。鍵盤の先にあるハンマーが弦を叩くことで音が出る仕組みのため、最終的には打楽器となるからだ。
だが、太鼓の「バチ」やマリンバやティンパニーの「マレット」などで楽器を直接叩くのとは違い、ピアノは複雑な構造を経て弦を叩いている。
まず、鍵盤を押すとシーソーのように鍵盤の奥が持ち上がり、ウィペンやジャックなどからなる「アクション」が作動する。そして、ジャックがハンマーを押し上げ、弦の直前まで近づくとジャックが外れ、ハンマーはそれまでに得た勢いで飛んで弦を叩き、すぐに跳ね返る。
——この仕組みにより、弦を押さえつけることなく自由に振動させ、音を生み出すことができる・・というのが、打鍵から音が出るまでに起こる内部の動きだ。
こんな複雑かつ精密な構造の楽器だからこそ、操作する側にも細心の注意というか感覚が求められるのは当然のこと。
そして、「あと3グラム力を入れて」とか「10キロの重さを伝えて」などと言われてもその通りにはできないわけで、だからこそ物理的な数字ではなく感覚的なもので強弱や濃淡といった変化をつけるのだ。
そのコアとなるのが、腹の奥というか体の深部というか、「どこ」と具体的に示せない場所に入る「感覚的な力」なのである。
こればかりは、本人が体得するまでは永遠に分からない感覚であり、それに付き合う側は根気と忍耐力が求められる——あぁ、師匠はよくぞここまで耐えてくれたな。
言葉にするのは簡単だが、それを実感して使いこなせるようになるには時間と経験が必要。
だからこそ、毎日毎日そのことばかりを考えて、間違った答えを出しては投げ捨て、また新たな答えを出しては落胆し、二年の時を経てようやく「正しい力の使い方」を手に入れたわけだ。
しかも、これまた面白いもので、一度自転車に乗れたらその後もずっと乗れるのと同じで、一度掴んだ感覚はもう二度と忘れない、という安心感がある——などと言いつつ、しばらくすると「あれはまだ完成形ではなかった!」と嘆くのだろうが、それでも今は、新たな感覚に安堵と喜びを感じているわけで。
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結局、わたしは未知の感覚を手に入れるためにピアノを続けているのかもしれない。
なんせ、決して終わることのない旅をしているのだから、その醍醐味といえば新たな発見の繰り返しでしかないのだから。











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