「まるで、子どもが本を読んでいるみたい」

 

わたしには「ものすごく嫌いなタイプの人間」が存在する。それは、肩書きや付属品のみでマウントをとるような、つまらない野郎のことだ。

 

「キミは何ができる?」という質問に、どれだけ面白い答えが得られるかを楽しみにしているわたしに対して、出身大学だの勤務先だの役職だの、いわゆる肩書きを並べて豪華な張りぼてを自慢する姿は、なんとも哀れであり醜くもある。

しかも、そういう奴に限って中身が空っぽの凡庸な物であることが多く、他人の目ばかり気にしてマウントをとり続ける人生を送るのは、いかに無駄で無意味なことなのかを改めて知るのであった。

 

中でも、大手広告代理店やマスコミで働いている者は、自身の肩書きや職場を自慢したがる傾向にある。個人的には、広告代理店の名前が出た時点で嫌悪感に包まれ終了——なのだが、そんなわたしの様子を気(け)取ることなく、ベラベラと聞いてもいないことを喋り続ける姿には反吐が出る。

ちなみに、

「身包みはがされて異国の地に置いて行かれら、キミには何ができる?」

という質問に、肩書き野郎は答えることができない。ほとんどの者が答えに窮するが、それでも絞り出すかのように必死に考える姿こそが、その人らしさでありわたしが知りたい「キミ」なのだが・・。

 

そんなわけで、他人の褌(ふんどし)で相撲をとるカスや、本性を隠してそつなくこなすソトヅラ野郎が大嫌いなわたしが、ピアノの師匠からまさかの感想を突きつけられた。

「誰かの真似をしているというか、無機質に同じことを繰り返そうとしてるように聞こえるのよね。あなたが生み出す音が聴きたいのに、違和感というかしっくりこないというか・・そんな感じしか伝わってこない。まるで、子どもが本を読んでいるかのような。」

この言葉を聞いたわたしは、衝撃を受けるのと同時に真実を知ったのである。

 

これまでは、音楽というものをどうやって表現すればいいのか分からず、脳内で曲のイメージを膨らませてそれっぽい演奏を心がけてきた。加えて、師匠からの指示や助言に従い、言われるがままに繰り返してきた。

無論、表現方法を知らないわたしにとっては、まずはその選択肢を増やすことが重要。よって、見よう見まねでアイテムを増やすことから始めるのは間違ってはいない。

だが、そこに”自分らしさ”があるのかと問われれば、迷わず「ノー」である。なんせ、とくに何も感じていない上に、何かを表現したいとも思っていないのだから、そんなわたしの演奏に「自分らしさ」を問われたところで、出せるわけがない。

 

ところが、一つだけ分かったことがある。それは「とくに何も感じていないし、やりたいことがあるわけではないが、とりあえずこんな感じでいいだろう」という本音が、演奏に反映されていたということだ。

そしてわたしは知った——あぁ、表現するってこういうことなのか。

 

「子どもが本を読むかのように」という例えが、妙にしっくりくる。そう、その通りなのだ。わたしはただただ、言われるがままに指を動かし音を紡いでいただけなのだから。

そして何より、「猿真似をしています」ということが如実に表れていたのだから、驚きというより納得するしかなかった。無理やり「どうにか表現しよう」と背伸びをするのではなく、己が無意識に感じていることが、自ずと音となり伝わるのだ・・ということを知ったからだ。

(そうか、無理やり作り上げるものじゃなかったんだ)

 

カッコよく仕上げようとか、素敵な感じに弾きこなそうとか、いわゆる「ソトヅラ的なこと」ばかり気にしていたわたしは、所詮、張りぼての演奏しかできなかった。それはすなわち、「キミに何ができるの?」という質問に答えていないのと同じである。

伝える気もないのに、とにかく言葉を捻りだそうとしても無理があるのと同じで、わたし自身が何も感じていなければ、「何も感じていない」ということが音に乗って発せられる——これが音楽ってやつなのか。

 

己が忌み嫌う人間像を、自分自身で演じていたのだからまさに茶番。今日からは、わたしらしい演奏を貫こう。二番煎じなど、頼まれてもやるものか。