見方が変われば世界が変わる。その努力・・いや想像力を、どこまで追求できるのか

 

肩関節の動作を改善するため、いわゆる「雌豹(めひょう)のポーズ」をとろうとしたところ、首や背中が固いせいでうまく頭が上がらない——そんな”無様なメヒョウ”に向かって、

「四つん這いで顔を上げようとすると、首の後ろを反らせる。それだと(頸椎ヘルニアの影響もあって)無理があるので、首の前側・・具体的には鎖骨からアゴにかけ、てグーっと伸ばす感じで上を向いてみて」

と、専門家からアドバイスをもらったわたし。

動作としては「四つん這いになって、頭を持ち上げて前を見る」というものなので、首の前面を意識しようがしまいが、物理的に「頭が上がる」ということに変わりはない。よって、どこを意識しようがそう簡単に変わるものではない——え!?なんか楽に反らせるじゃないか!!

 

自分の中でも、無意識に顔を上げた際には「首の骨が詰まるから、これ以上は絶対に無理!」と感じたが、アドバイス通りに首の前面を意識して顔を上げてみると、不思議なことに先ほどよりも明らかに上を向くことができたのだ。

しかも、鏡の前でこのポーズをとっているわけで、自分の目でしっかりと確かめたので間違いはない。要するに、やっていることは同じでも意識を変えるだけでこうも変わるものなのだ——。

 

そうなると、日頃の行いで上手くいかないことがあっても、見方や考え方、さらにはアプローチ方法を変えることで、結果が変わることは多々あるのかもしれない。ということは、その「感覚」を知っているか知らないかで、可能性を広げるか潰すかが決まるというわけか。

 

(そういえば、ピアノの師匠も毎回変わった表現を使うな・・)

師匠の元を訪れた当初から様々な表現で教わってきた「腕の使い方」について、ここ最近になって、師匠が求める「それ」に近づく感覚を得た気がするわたしは、ここでもやはり表現の柔軟さについて思うことがあった。

前回のレッスン時に、師匠はわたしを立たせると「手を上げて『前へならえ』のようなポーズをとってみて」と言った。言われるがままにそのポーズをすると、彼女は続けてこう話してくれたのだ。

「このまま・・たとえば5分もすれば、腕が重くなって下がってしまうでしょう。だけど『腕が前に伸びていく、ずーっとずーっと伸びていく、宇宙の果てまでどこまでも伸びでいく』というイメージでいると、いつまで経っても腕は重く感じないのよ」

 

「そんな馬鹿なことがあるか」とまでは思わないが、まぁ騙されたと思ってそのイメージに切り替えてみたところ・・あぁなるほど!腕を上げているという感覚は消えて、体の内側から指先に向かって何かが流れ出るイメージが湧いてきたのだ。

自分の体も浮いてしまい前のめりになりそうな反面、それを背中が引っ張ってバランスを保つことで、腕だけがグングン伸びていく——。そんな不思議な感覚を体験するわたしに向かって、師匠は「そうやって弾いてほしいのよ」と呟いた。

 

今まで、いくつもの表現でピアノの弾き方を習ってきた。腕の内側は空っぽの状態で・・腹の中心や骨盤あたりから指令を出すように・・地面から足の底を通じて指先まで何かを引っ張り出すように・・縮こまるのではなく離れていく感じで・・鍵盤は「押す」のではなく「引く」のよ・・ベクトルを内側へ向けずに外側へ発する意識で・・・・。

多種多様な表現で毎回異なるアプローチを試みる師匠だったが、ここへきてようやく、一つの「重要な通過点」にたどり着いた気がした。今までの教えが、そのすべての要点がこの動き——すなわち「宇宙の果てまで腕が伸びていく感じ」に集約されていたのだ。

(なるほど、なんて弾きやすいんだろう・・・)

まるで見えない足枷が外れたかのように、脳内のイメージが体を通じて指先から鍵盤へと流れ出ていく。あぁ、たしかにこの状態ならば、師匠が言っていたことが全て再現できるわ——。

 

やっていることは変わらないし見た目も同じ動作ではあるが、自分の意識次第で結果が大きく変わるのだということを、師匠の下でピアノを習い始めて二年、その真髄の一部にようやく触れることができたのである。

自分自身のことですらこんな感じなのだから、他人を含むこの世の事象について、すべてを理解することなどできるはずもない。所詮は表面的な一部に触れているだけで、それを「知った気」「分かった気」になっているだけなのだ。

(そう考えると、この世はとてつもなく莫大な可能性でできているわけか)

 

死ぬまでの間に、一体どれほどの真髄や本質に触れることができるのか——。人生というのは、割と忙しいものなのかもしれない。