ケン・ワタナベの幻想

Pocket

 

昨日の、代打・トスンパが書いたコラムを読んで、ふと思ったことがある。

 

ざっと内容をさらうと、しがない中年かつ薄毛のトスンパは、ハリウッド俳優でありオジサン憧れの星であもる渡辺謙の容貌、というか髪型を目指しているらしい。

似ても似つかないハリウッドスターを目指す根底には、トスンパの頭髪具合いが大きく関係している。年齢的なものもあり、いい感じに髪の毛がボリュームダウンしてきた渡辺謙。しかし本当にイイ男というのは、当然ながらヘアスタイルなどで左右されるものではない。

だが一般人は、部分的にでも同じ個所があれば、そこだけを見て「真似できる!」と思い込んでしまうもの。ご多分に漏れず、トスンパも大いなる勘違いをしてしまったのだ。

 

「渡辺謙じゃなくて、温水洋一じゃダメなのか?」

 

これは誰もが考えるであろう単純な疑問である。

俳優として素晴らしい実績とポジションを誇る温水氏を、決してディスっているわけではない。だがなぜ、身近な存在である温水氏の「ぬ」の字も出ずに、高嶺の花である渡辺謙の名前が挙がるのか、わたしにとっては不思議でしかたないのだ。

 

人間というのはもしかすると、自分が抱くコンプレックスと同じ特徴のある有名人に、寄せたい気持ちが生まれるのかもしれない。

よくよく考えると、たらこ唇を気にする友人はジェニファー・ロペスの熱狂的なファンだし、ハゲでヒゲの濃い友人は、明らかにジェイソン・ステイサムを意識している。

 

だがこれはいいことである。自分にとってのコンプレックスが、他人からするとチャームポイントになりえる場合もあるからだ。そしていつしか、コンプレックスを愛せるようになれば最高じゃないか。

一重まぶたを嫌って二重の手術をするのではなく、一重まぶたの有名人を見つけて自信を持つほうが、よっぽど健全といえる。要するに、生身の体に手を加えるのではなく、あるがままの姿を愛するほうが、明らかに自然で幸せなことだからだ。

 

話をトスンパに戻そう。

おどけた道化師を地で行くかのような、あまりに単純で浅はかな中年男性・トスンパは、心の底で自分とハリウッド俳優とを重ねていたのだ。

触れてはいけないものに触れたような、どこか罪悪感に似た感情を抱かされつつも、改めてトスンパの薄っぺらさについて考えてみた。

 

知り合ったばかりの敏腕散髪屋と思しきオッサンに、「私を渡辺謙にしてください!」と懇願したトスンパ。

たとえば過去に目鼻顔立ちのどこか一つでも、渡辺謙に似ているといわれたことがあるならばまだしも、二人の共通点は頭髪の状態だけである。

そして、最終的に渡辺謙と同じ髪型にしたところで、いったい何が変わるというのか。まさかそれをもって「オレも今日から渡辺謙だ!」などと豹変するのだろうか。

 

散髪屋のオッサンもオッサンだ。それなりの高額なカット代をとるだけの、腕があるのは間違いないだろう。しかし「もう少し髪の毛が伸びたら、渡辺謙にしてあげる」などと、よくぞ言ったもんだ。

一歩間違えれば、その辺にいる短髪の薄毛男性と変わりないわけで、髪の毛が伸びるまでの間の散髪代を、荒稼ぎするのが目的なんじゃないかと疑ってしまう。

せめて「温水洋一ならば可能だよ」と言えばいいものを、なぜハリウッドスターで承知してしまったのか理解に苦しむ。

 

散髪屋の優しいウソのせいで、いい年したオッサンが目を輝かせながら、数か月後には渡辺謙になっているであろう自分の姿を想像しているのだから、これは罪以外の何ものでもない。

そしていよいよ、「さぁ、渡辺謙と同じ髪型ですよ!」と言われて、鏡に映る自分を見た瞬間のトスンパを思うと心が痛む。

トスンパは軽薄で単純な思考回路の持ち主である。それゆえに、鏡の前に昨日と同じ自分が座っていたりしたら、それこそショックで残り少ない毛髪が抜けてしまうかもしれないわけで――。

 

・・・とはいえ、この数か月は未来の自分(渡辺謙)を想像しながら幸せな日々を過ごせるわけだし、それはそれでいい人生なのかもしれない。

そうだ、まずは今が大切である。今を楽しめずして、明るい未来は来ないのだ。

 

トスンパに幸あらんことを祈る。

 

Illustrated by 希鳳

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です