これは本当に不思議なことだが、いわゆる「育ちの良さ」というものは、どうにも隠すことができずに溢れ出てしまう・・という事実を、お嬢さまである二人の友人を観察しながら改めて感じるわたし。
顔や見た目、衣服や持ち物の良し悪しも多少は関係するだろうが、それだけではなく・・なんというか、どこからともなく漏れ伝わる「気品」のようなものがあるのだ。
しかも、ことさら言葉遣いが美しいとか、お嬢さま風のしゃべり方をしているとか、そういった特別感など一切ないのに——それこそ、普通に「マジ〇〇だよね~」的な発言が飛び交うというのに、その言葉にすら上品さを感じるのだから恐ろしい。
しかもお嬢さまというやつは、幼い頃から強制的に「宗教の世界」に触れさせられているケースが多い、というのも特徴である。
もちろん、通学している学校がミッション・スクールや宗教系の学校だったという理由もあるだろうが、他愛もないおしゃべりの途中で『右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい』などというセリフが、敬虔なクリスチャン以外に口を突いて出ることなどあり得ない。あるとしたら、それは「お嬢さま」である。
ちなみにこれは、新約聖書『マタイによる福音書』 5章39節に記されている、イエス・キリストの言葉なのだが、「右の頬を打たれたあげくに、なんで左も出さなきゃならないの?!」と、卑しい平民であるわたしは不審に思った。
後にこの言葉の意味を調べてみたところ、いくつかの解釈がある模様。
まずは「暴力や悪意に対して、同じようにやり返すのではなく、報復の連鎖を断ち切りなさい」という趣旨である説。最初は、カッとなって手を出してしまった相手に対して、逆の頬を差し出すことで「はっ!自分は何をやってるんだ!?」と目を覚まさせること——すなわち、非暴力で暴力を止めるという意味合い。
そしてもう一つは、ちょっと深い解釈というか歴史的背景が反映される内容だった。
まず、右の頬を打たれるということは、相手が右利きの場合は手の甲でビンタを食らわせることとなる。これはすなわち「奴隷や身分の低い者への仕打ちの仕方」なのだそう。当時は「手のひらを汚さぬよう、侮蔑の意味を込めて手の甲で叩く」というのが、貴族社会における常識だったため、ビンタされた側が右頬を叩かれたとなれば、それは手の甲で叩かれたことになる。
それを踏まえて、次の瞬間に左頬を差し出したなら——相手が自分の左頬を叩くとしたら、それは「手のひら」で打つことになる。要するにそれは、自分のことを”奴隷のような身分の低い者”ではなく、”対等な人間”として扱うことを意味する。
もしも相手が手のひらで頬を打ったならば、それは自分を対等な人間だと認めたことになり、相手にとっては屈辱以外のなにものでもない。そんな、「非暴力による無言の挑発」が、不当な行為(暴力や報復)の連鎖を止めるのだと、イエス・キリストは説いているのだ。
——あぁ、そんな深い教えが、今もなおお嬢さまの中では生き続けているのか。
宗教系の学校が目指すものは、愛や慈悲・奉仕といった普遍的な価値観を育てるためであったり、受験勉強や知識だけでなく『人がどう生きるべきか」や『他者を思いやる心』など人間教育を重視するためであったり、どの宗派でも「ヒトの本質に触れる教育」を目的としている。
それはすなわち、お嬢さまという存在を構成する要素として欠かせない精神なのである。
こういった成長過程での学びが、彼女たちを立派なお嬢さまに育て上げたであろう事実に頷きつつ、「にしてもなぜこうも違うのだろうか」と、輩(やから)っぽさを全開で垂れ流すわたしは、自分とお嬢さまとの格差について考えるのであった。










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