「不穏」に慣れれば快適になるか?

 

千里の道も一歩から・・という言葉のとおり、どれほど遠く険しい道のりであっても、まずは一歩を踏み出すところから始まる。そして、その「一歩」というのがじつは最も勇気のいる行動であり、二歩三歩と勢いがつけば案外スタスタと歩けるものである。

 

それにしても、なんだこの難解なパズルというか数式というか、答えが見えない音符の羅列は——。

新たな課題曲である、ドビュッシーのプレリュード(前奏曲)Ⅱにある「霧」という曲を、他人の演奏を耳で聞いても実際に楽譜を目で見ても、わたしには理解ができなかった。いや、理解するなどという偉そうな言い方は間違っており、「素晴らしい」「心地よい」と思えるような共感が・・残念ながら持てなかった。

 

そんな状態ではあるが、とはいえ音を出さなければ始まらないわけで、とりあえず楽譜に書かれたとおりに弾いてみた。

(なんなんだ、この不規則かつ不協和音みたいな音の繰り返しは・・)

たった1小節ではあるが、わたしは己を疑った。出している音が間違っているんじゃないか? もしくは、左手にもフラットが付いているんじゃないか?——否。聞こえてくる音は、わたしが知っている耳触りのいい旋律や和音ではなく、「本当にこれが曲なのか?」という微妙に不気味なものだった。

だが、それは正しい音なのだ。

 

(・・わたしは、この不穏な状態を繰り返さなければならないのか?)

このように、まずは「一歩」を踏み出したわたしではあるが、もうすでに二歩目を踏み出す勇気を失ってしまったのである。

 

ドビュッシー(1862~1918)は、近代音楽の幕開けの象徴とされるフランスの作曲家。従来の「ロマン派」が重視していた和声や形式にとらわれず、光や水、風景を思わせる繊細な響きと豊かな色彩感を追求し、音楽表現を大きく変革したことで知られている。

その革新的な作風は近代音楽の発展に大きな影響を与え、20世紀以降の作曲家たちへ受け継がれたのは当然だが、現代人である我々が聞いても斬新でシュールな、いわゆる「しゃれた曲」ばかりであることに驚かされる。

おまけに、曲のタイトルも独特なものが多く、「沈める寺」「亜麻色の髪の乙女」「喜びの島」「版画」など、彼の着眼点そのものが特異で面白いのである。

 

そんなドビュッシー先生の作品の一つである「霧」の冒頭で、自分が出している音を信じられないわたしは、とりあえず二歩目を踏み出した。

ところが、「やはり」というかなんというか、左手と右手が同じ音であるにもかかわらず、右手にはフラットが付いていて左手には付いていないという、おかしな事態に直面した。さらに三歩目へと踏み込んだところ、今度は左手をとおり越してさらに低い音を右手で弾く指示があり、オクターブ高いときは全てフラットだったものが、ここではフラットの記号が見当たらないではないか。

(・・あれ? オクターブ飛んでもフラットって生きるんだっけ・・いや、そんなはずないよな)

 

もはや、初歩的な楽譜の読み方さえも忘れてしまうほどの難解な音符の羅列に、四歩目の勇気を失うのであった。

 

 

それにしても、どうすればこんな複雑な響きを生み出すことができる・・というか、生み出す気になれるのだろうか。おまけに、「霧」というタイトルを象徴するかのように、見事にメロディーがないのも困る。

まぁたしかに、前が見えない深い霧を彷徨い歩くかのように、または濃霧の中で密かに殺人事件が起きたかのように、不気味で不穏な響きの連続ではある。そういう意味では、今までの音楽の概念をぶち壊すかのような、曲全体が一枚の絵画になっているかのような、なんとも不思議な感覚を抱かされるのは事実。

そしてわたしは、その不安定で不慣れな感覚を受け入れなければならないわけだ。そうしなければ、永遠にゴールへたどり着くことはできないし、意味不明なものに触れて馴染むことこそが成長につながるのだから。

 

(にしても、音楽ってこんな読解不能な作業だったっけ・・・)

さらなる一歩を踏み出すたびに、頭の中で「?」マークが続々と増えていく——すなわち「先が見えない恐ろしさ」こそが、曲のタイトルである「霧」を表しているのかもしれないな。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です