手練れ調教師に掌握された餌

 

ラスベガスに来てからというもの、ひたすらジッと動かない生活を決め込んでいるわたしは、世話になっている友人から「外が気持ちいいから、散歩でもしたら?」「家の中にあるトレーニング機器、好きに使っていいからね」などと、さりげなく運動を示唆されても断固として無視を続けていた。

そんなわたしを・・というか、わたしの健康を気遣う友人がまさかの配慮をみせたのだ。いったいどのような配慮かというと、「食べられる状態で、食べ物を置かない」という、まさかの”奥の手”を出してきたのである。

 

——わたしは料理ができない。それ故に、加熱やカットなど何らかの調理が必要な食材が転がっていても、それを食べ物とは認識せずに単なるオブジェとしてスルーしている。

さらに、冷蔵庫で保存している調理済みの料理を食べる際に、電子レンジやエアフライヤーで温め直すことをせず、冷たいまま食べるのがわたし流。よって、再加熱が必要な料理も、食べ物というより”美味そうなオブジェ”というジャンルに振り分けられるのだ。

 

このようなわたしの特性(特異性)を見抜いた友人は、ものの見事に「食べられない状態」を作り出すことで、あればあるだけ食べてしまうわたしの胃袋を管理するようになった——あぁ、なんと恐るべき洞察力と判断の早さよ。

その対応に気がついたのは、夜中にフラっと冷蔵庫を開けたときのことだった。

色々な食べ物が並んでいるにもかかわらず、わたしが自力で食べられそうなものは限られていた。たとえば、タッパーに詰められたパンケーキの残骸と、クッキーか何かの生地を混ぜた「生の練り粉」など——よし、とりあえずいただくとしよう。

 

実際のところ、冷蔵庫にはたくさんの食材や料理が入っている。だが、どれもひと手間加える必要がありそうなものばかりで、勝手につまみ食いをすれば痛い目に遭うかもしれない。

そんな「動物的直感」により、食べることが難しそうな物には手を出さず、そのまま口へ運べるもの(焼く前の生地を含む)だけを取り出して貪り食った——うん、ひんやりしていて美味い!!

 

余談だが、今回のアメリカ滞在で一番勉強になったのは、「Dough(ドウ)」という食べ物の存在だ。

ドウとは「生地」を意味し、有名なところではドーナツの語源となっているわけだが、そんな「ドウ」こと「生地」を普通に食べる・・というか、ドウを味わい楽しむ食文化がアメリカには根付いている模様。

その証拠に、スーパーのアイスクリームコーナーには「クッキードウ」という名前の商品が売られており、中身はバニラアイスにしっとりクッキー生地が練り込まれた、まさにクッキードウ味のアイスなのだ。

 

とはいえ、わたしはアイスなんかよりも「クッキー生地のみ」を食べたい派である。そして今、新鮮なクッキードウがねっとりとこびりついたヘラが目の前にあり、それにしゃぶりつくことが許されている——あぁ、なんて幸せなんだ!!

あっという間にヘラを舐め尽くしたわたしは、ふと我に返るとボウルに入ったクッキードウには手を出さず、そっと冷蔵庫へと戻した。

——常識的に考えて、これは焼くものだ。

 

欲望を抑え自制心を働かせたわたしが、静かに冷蔵庫のドアを閉めようとした時、奥のほうで密かに存在感を示す球体の存在に気がついた。

(あれは・・ユタ州のファーマーズマーケットで購入した、採れたてのスイカではないか!)

 

しかしながら悲しいかな、目の前にスイカがあってもわたしはそれを食べることができない。

これがもしも自宅ならば、レジ袋に入れて床へ叩きつけることでスイカを解体できるが、ここは友人宅でありそんな野蛮な行為は慎んで然るべき。それよりなにより、彼女は寝る前にこう囁いた——明日になったら、スイカを切ってあげるね・・と。

(もはや「やり手」と言うしかない。見事にわたしを飼いならしているではないか)

 

包丁やコンロといった、調理にまつわる器具および製品を毛嫌いするわたしにとって、スイカを包丁でカットすることは不可能に近い。

昨年、強制的に包丁を持たされたわたしは、メロンを半分に切るというミッションを課せられたのだが、いつまで経っても半分にならないことを不審に思い、包丁を刺したままひっくり返してみたところ、なぜか「謎の螺旋」ができている・・という奇妙な事件があった——そう、包丁が少しずつズレていったせいで、気付かぬうちにメロンを何周かしていたのだ。

 

そんな悪夢がよみがえり、スイカは「朝のお楽しみ」として見逃すことにしたわたし。

やり手な友人によるウエイトコントロールのおかげで、大幅な体重増加はどうにか免れているが、とはいえスイカは確実に胃袋へ送り込みたいので、彼女の起床を心持ちにする深夜なのであった。