怠惰と意欲の結末

Pocket

 

半月板と靭帯を傷めたわたしは、この一週間ほぼ何もしなかった。とはいえ毎日、飯は食うし排泄もする。風呂へは二度入ったし、洗濯機は一回だけ回した。

・・・待て待て。一週間に二度しか風呂に入らないなんて不潔!などと軽蔑するなかれ。なぜなら、運動どころかほぼ歩いていないため、体は汚れていないのだ。

 

先週のわたしのモットーは、某アニメで発せられた有名なこのセリフ、

「蝶よりも花よりも丁重に扱え!!」

に倣(なら)い、

「赤子よりも老人よりもノロノロと歩け!!」

だった。つまり外出の際には、この世のすべてに迷惑をかけながら、完全にマイペースで目的地を目指したわけだ。

そして、帰宅したら手を洗うと同時に足の裏も石鹸でゴシゴシしたので、風呂など入らなくても必要最低限の清潔は保てたのである。

 

 

自宅におけるわたしは、倒れたまま誰からも起こされることなく月日が経った地蔵のように、ソファーで横になったまま動かない。その視線の先にはネットフリックス。そしてそこからは、友人お勧めのアニメがエンドレスに垂れ流されている。

 

右を向いて寝ていると、当たり前だがずっと右向きになるので、そのうち体の右サイドが痺れてくる。そのため2話に一度は仰向けになると、顔だけ右に向けてアニメを視聴し続けた。

だが恒常的に右を向き続けていると、首や右肩が凝り固まってしまう。このままではアニメに集中できない――。

そこでわたしは、重い腰を上げると頭と足の向きを逆にした。こうすれば、左を向くことでアニメが見られる!

 

こうして、とんでもない怠惰な生活を送るわたしは、大いに暇を弄んでいた。なんせ、柔術の練習に行けば必ず洗濯をしなければならないが、そもそも着替えをしないので洗濯する衣服がない。これにより、洗濯機をスタートさせてから干し終わるまでの二時間のストレスが、丸々消滅するのだ。

さらに練習へ行くための往復の移動時間も消えることから、毎日5時間ほどの余裕が手に入るのである。こうなると、分刻みでスケジューリングしていたこれまでが、なんとも馬鹿らしく思えてくる。

 

そしてこの余暇を利用して、わたしはピアノの練習に励んだ。こんなにも有効な時間の使い方はないだろう。なんせ、勝手に練習時間が生まれたのだから。

ピアノを再開してから二年半、ここまで長時間の練習を行った週はない。一日5時間もピアノを弾くなど、現役時代の最後のほうでしか成し得なかった、幻の勤勉モードだからだ。

 

 

毎日毎日、意欲的にピアノを練習したわたしは、二週間ぶりのレッスンに向かった。

今日のわたしは特別である。なんといってもやる気が漲り、それを担保するだけの練習量もあるのだから。先生も驚くに違いない――。

 

大体こういう場合は失敗するのがお決まり。仮にこれで上手くいってしまったら、「努力は報われる」を証明することとなり、逆に残酷といえる。努力したって上手くいかないのが人生。成功できるのは能力やセンスといった、生まれ持っての才能によるものであり、努力などで覆るほどこの世は甘くはない。

それでもわたしは、「今日に限って、上手くいかない理由がない」と、内心ニヤニヤしていたのである。

 

「あらぁ、どうしたの?ミスばかりで。今日で終わらせようと思ってたのに、これじゃ無理よ」

 

全身がわなわなと震える。なぜだ?なぜ上手く弾けないのだ??

鍵盤に触れるのが怖い。そのせいで指がもつれてミスタッチを生む。自宅で練習したときには、絶対に間違えなかった部分を何度も間違える。なぜだ――。

 

頭をフル回転させて言い訳を探すわたしは、間もなくこの原因に気が付いた。

自宅のピアノには消音装置がついている。そのため、鍵盤を押し込んでスイッチに触れると、ヘッドフォンから音が出る仕組みとなっている。つまり、繊細なタッチではスイッチが入らないのだ。

それに比べて、いま弾いているのは生音のグランドピアノである。ほんのちょっと押し込んだだけでも弱々しい音が鳴る、アコースティックの楽器なのだ。

 

――こんなことはとうの昔に分かっていた。だからこそ、スタジオでグランドピアノを借りて練習するなど、自宅のピアノとの落差を埋めるべく工夫してきたのだ。

それなのにこの一週間、歩けないのをいいことに自宅へ篭り、オンオフでしか音の出せないピアノで何時間も、いや、何十時間も練習を続けたのだ。調子に乗って慣れないことをした結果、スイッチのような電子的な鍵盤の感覚が染みついてしまい、アコースティックピアノの繊細さにビビってしまったのだ。

(なんなんだ、このサラサラした感覚は・・・)

あまりのパニックに楽譜も飛ぶ始末。最悪だ、最悪すぎる!!!

 

 

がっくりと肩を落としたわたしは、心の中で強く誓った。

(もう二度と、時間があるからといって張り切って練習などしない!)

 

Illustrated by 希鳳

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です