よく「ピアノの練習を一日サボると、戻すのに三日かかる」と言われるが、素人に毛が生えた程度のわたしにとっては、そのセオリーは通用しない。
そりゃそうだ・・というか、技術力や表現力といった演奏レベルが高くないからこそ、そんな鈍感なことがいえるのかもしれないが、仮に「毎日、鍵盤に触れなければ下手になる」のならば、海外のコンクールやリサイタルに出演するピアニストたちは、その度に劣化することになる——さすがに、それはないだろう。
昨年の夏、海外にて二週間ほどピアノのない生活を送ったわたしだが、帰国後に鍵盤と対峙した際に「うん、思い通りに弾ける!」と確信した記憶がある。なぜ、長い間楽器に触れていなかったにもかかわらず「ちゃんと弾ける」と思ったのかというと、”空白の二週間”となる期間の毎日、楽譜を見ながら脳内でピアノを弾いていたからだ。
じつは、渡航時にシリコン素材の「携帯用のピアノ鍵盤」を持参していたのだが、当たり前に打鍵の感覚が違ったり、音が出る出ないの反応にばらつきがあったりと、むしろ音に頼ることで”困惑と疑心暗鬼”という要らぬストレスを抱える結果となった。
(師匠はいつも「音を聞きなさい」と口酸っぱく言っている。指の形とか体の動かし方とか、そんなことよりも「どんな音を出したいのか」をイメージして、その音を出す努力をしなさい・・と。だったら、こんなおもちゃの音を必聞いたところで、なんの練習にもならないじゃないか)
要するに、毎日ピアノを弾かなければ下手になるヒトというのは、「毎日、音を聞かなければ不安になるヒト」なのだろう。無論、「いい音」を出す練習は音がなければ実現不可能。だが、出したい音が出ない楽器——たとえば電子ピアノだったり、おもちゃの親戚のような楽器だったりするならば、いっそのこと「無音」のほうがマシである。
その分、脳内で「出したい音」をイメージして、どう弾けばその音が出るのかを考えつつエアーで指を動かすほうが、結果として何百倍もの効果が得られる。現にわたしは、そうやって二週間を過ごした後に、脳内でイメージを続けた演奏(に近いもの)が再現できたわけで、その時は心の底から「あのおもちゃ(のピアノ)を使わなくてよかった・・」と、己のナイス判断を褒め称えたものだ。
というように、わたしに限っては実際に体を動かして覚えるよりも、「脳内でイメージできれば体現できる」という右脳寄りな性質がある。だからこそ、今回の柔術セミナーは、己の真髄を貫かれるような目の覚める思いに駆られる内容だった。
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「柔術のセミナー」といえば、実際に技やエントリーを習ったり、体や手足の扱い方を学んだりするのが一般的であり、参加者もそのつもりで鼻息荒く待ち構えているもの。だが今回は、まさかの「座学のみで45分」という、格闘技のセミナーとしては異例の形式。
しかしながら、単に「(講師の)現役時代の体験談を聞く」ということではなく、柔術とは何なのか——さらに掘り下げて、「ボトム」に居ることの意味や役割、そして「ボトムから何を目指さなければならないのか」といった、柔術という競技に取り組むにあたっての考え方やマインドについて、見事に言語化された45分間だった。
わたしは、一応黒帯を巻かせてもらっている身分ではあるが、恥ずかしながら「え、今さら!?」と笑われるであろう学びと発見を座学から得ることができた。
これまでは、どこか無駄に気負っていたというか、外観だけを見て柔術をやってる気になっていたが、それが「なぜそうなのか」、また「何が足りないのか」が分からなかった。だが、講義を聞くにつれて、わたしの中でどんどんイメージが膨らんできた。
言葉としては簡単な表現であり、誰もが当たり前に感じる内容かもしれないが、表面的な部分だけをさらってここまで来てしまったわたしにとっては、そもそも「柔術という競技の本質に触れた瞬間」だったのかもしれない——そんな、絶望にも似た発見を覚えたのである。
(わたしの持ち味は、奇想天外な発想力と突拍子もない行動力だ。それなのに、柔術に関しては猪突猛進で飛び込むか、はたまた習った技術を形式的に再現するかの二択しかなかった。言い換えれば、「盲目的な突進しかできない、知識はあるが教養のない者」がわたしだったんだ)
柔術においてわたしに足りなかったのは、自身でイメージを膨らませる力だったんだ・・と、長い講義を聞きながら少しずつ雪解けのような感覚を味わうのであった。
格闘技だから、スポーツだからといって、必ずしも体を動かし汗をかくことだけが意味のある練習とはいえない。そこに「自分」があるのかどうか、そう思えるだけの脳内での処理ができているのかどうか——その場にいるだけでやった気になったり、汗をかくことで満足してしまったり、(相対的なラッキーで勝っただけで)自分は強いと勘違いしたり・・と、どこか浮足立ってないか己を振り返る機会は必要だろう。
その点、「ピアノ」はこういった勘違いが起きにくい。なぜなら、音を出すのも表現するのも自分自身であり、わたしの演奏を聞いた者の表情や反応を見れば、その評価たるや一目瞭然。勘違いする余地もないほど、素直で辛辣な現実を突きつけられるからだ。
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そんなわけで、「柔術」という格闘技またはスポーツあるいは護身術において、技術の習得はさることながら、脳内でのイメージやマインドの方向性といった「根本的かつ本質的な部分」が足りていなかったのだ・・ということを、45分の座学セミナーにて学んだ不肖・黒帯なのであった。











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