昔、プロゴルフの国内男子ツアーのキャディをしていたことがある。
プロゴルファーは、過酷で孤独な職業だ。
自分のベストを尽くしても、負ける時は負ける。
その理不尽な状況に置かれているとき、物理的に、もっとも近くにいるのが、キャディなのだ。
ボールを打つのは選手。
その結果、スライス(えらく右へ曲がること)しようが、ダフろう(地面を掘ってしまうこと)が、バーディートライでチキろうが(ビビッて、弱く打ちすぎてしまうこと)、すべては選手本人に起因する。
しかし、
そう簡単に片付かないのが、人間というものだろう。
そのくらい、プロゴルファーという職業は、過酷で孤独なのだ。
**
私のキャディ人生で、忘れられない出来事といえば、あれしかない。
三井住友VISAマスターズの、ラウンド中のこと。
ティーショットを打ち、セカンド地点へ向かう途中、その日の主(あるじ)が突如、右手を差し出してきた。
――シチュエーションからすると、飲み物だろうか?
私は、背負っていたキャディバッグから、ドリンクを取り出し、手渡そうとした。
「ちがう」
苛立ちが感じられる。
――ということは、タオルか?
私は、キャディバッグの横に付けていたタオルを、差し出そうとした。
「だから、ちがう」
――もはや恐怖だ。
セカンド地点が近づいている。
ピンまでの距離を歩測しなければならない。
風向きや傾斜を計算しなければならない。
なのに、
差し出された右手に、何を渡せばいいのか、分からない。
「いま必要なのは、ピンポジだろ」
(そ、そうか・・・)
私はあわてて、ポケットから、その日のピンポジションと芝目が書き込まれた紙を、取り出した。
*
セカンド地点に到着。
ヤーデージ杭から歩測し、ピンまでの距離を測る。
必要なクラブは、9アイアンかPW(ピッチングウェッジ)だろう。
――しかし、ここでその2本を用意してはならない。
なぜなら、選手の機嫌を損ねる可能性があるからだ。
キャディごときが、選手の次の一打のクラブを選択するなど、プロへの冒涜だ。
本人からアイアンの番号を告げられるまで、ステイだ。
私は、キャディバッグに納まっているアイアンのなかで、9とPWをさりげなく触りながら、主からの指示を待つ。
「 P 」
瞬時にサッと、PW を渡す。
――ナイスショット!
しかも、ベタピン(ピンにかなり近い)!
少し、柔らかい表情になった主から、黙って右手が差し出される。
その手には、さっきまではめていたグローブが握られている。
私はそのグローブを受け取り、ポケットにしまった。
*
グリーンへ近づくと、またもや右手が差し出される。
しかし、これはまったく問題ない。
パターを渡すだけだからだ。
サッとパターを渡すと、怒られることなく、主はボールへ向かった。
(・・・ホッ)
ボールからピンまで、およそ4メートル。
きわどいが、絶好のバーディーチャンス。
今朝、入念に調べた芝目と傾斜、そして、パンパンに固められた超高速ベント芝(14フィート・・・)での転がりをイメージし、主の後ろへ回る。
「あの、ボールマークの内側くらいか?」
「そうですね」
「カップ付近は?」
「やや下りのフックです」
「了解」
――この、「キャディが試される瞬間」は、ものすごく心臓に悪い。
読みが間違っていた場合、どうすればいいのだろうか。
選手が、ボールを正確に打ち出したにも関わらず、カップ直前で逆に曲がったりしたら、どうすればいいのだろうか…。
打つのも、決めるのも、選手自身だ。
とはいえ、相談され、助言をしたのはこちらだ。
そして、2人の意見で決定したルート、ということは、ある種、運命共同体だ。
こちらはただ、祈るようにボールの行方を見守ることしかできない。
ときには、目を閉じて耳を澄ませる。
カランカラン、と甲高くソリッドなカップインの音が聞こえれば、安心して目を開ける。
しかし、
(あぁーーー)
ギャラリーから、ため息交じりの悲鳴が聞こえた。
――外れた
ここから次のティーグラウンドまでは、地獄の道のりとなる。
*
異常に長く、重々しいグリーンマイル。
約20㌔のキャディバッグを、ガッチャガッチャ鳴らしながら歩く。
と、その時、またもや右手が差し出された。
――この場合、気分転換にドリンクか?
それとも、手を拭くためのタオルか?
いや、次のコース戦略のための、サイモンメモ*1か?
*1…コースやヤーデージ、グリーンの傾斜など、コース攻略に必要な要素が全て記入されている、ツアー専用のメモ。
恐る恐る、主の顔を見上げる。
「タバコ」
――そうか、こんなときは気分を一新させるために、一服するものか
すぐさま、逆ポケットからタバコとライターを取り出し、手渡した。
主は、無言でタバコに火をつけ、遠くを眺めながらティーグラウンドへ向かった。
*
飛距離が持ち味の主にとって、このロングホールこそ、さっき取り損ねたバーディーを、取り返すチャンスだ。
ロングホールのティーショットは、ドライバーに決まっている。
こればかりは、キャディが先に準備していても怒られないクラブだ。
主の右手が差し出された。
私は、迷わずドライバーを差し出した。
「ちがう!!!」
――大声で怒鳴られた。
なにが違うのか、さっぱり分からなかった。
同じ組の他の選手やキャディたちは、「やっちゃったね」と言わんばかりに、下を向き目を伏せていた。
「ティーショット打つのに、ボールなかったら打てないだろ!!!」
(そっちが先だったか!!)
慌てて、ビブスからニューボールを取り出し、ドライバーと合わせて差し出した。
*
もう、今後、右手を出されたらこうする、と決めていた。
・左手には、フタを開けたドリンク
・右手には、タバコとライター
・左手の前腕には、タオル
・右手の薬指と小指の間には、サイモンメモとピンポジ
この完璧な状態を維持したまま、セカンド地点へと向かった。
すると、背後から主が、不機嫌そうに声をかけてきた。
「おい」
(きっと、さっきティーショット前に、私がボールを渡さなかったことで集中力を切らしてしまい、そのことを怒られるんだ・・・)
そんなことを考えながら、恐る恐る振り返った。
すると、
「なんだそれ(両手に色々抱えてる)
・・・おまえ、面白いな」
そういって、憐れむ目で私を見ながら、主は苦笑した。
――正直、ホッとした
**
キャディとして、何より重要な役割は、選手のご機嫌を保つことだ。
どんなに正確なヤードを告げようが、芝目を読み切ろうが、それは多分、選手自身のほうが分かっている。
選手はただ、話し相手がほしいのだ。
自分の考えに賛同してくれる、味方がほしいのだ。
たった一人で18ホールを4日間、戦い続けるプロゴルファー。
その心を一瞬でも、癒すことのできる人間がいるとしたら、それは、物理的に近くにいるキャディしかいない。
大事な場面でミスをしたとしても、次のショットまでにリセットできれば、まだ可能性がある。
そのお手伝いができてこそ、キャディの本領であり、素質なのだと思った。
(少なくとも、私にはその素質はないので、キャディには向いていないことだけは、はっきりした。)
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