ひな鳥の気持ち

 

(あぁ・・ひな鳥というのは、こんなにも幸せな気持ちなのか)

——わたしは今日、ひな鳥になった。

 

 

友人の美容室で髪を切り、シャンプー台へ移動した時のこと。

店内にはわたしのほかに二人の客がいた。一人は、わたしの隣のシャンプー台で顔にタオルを掛けられて寝ており、もう一人は大きな鏡の前に座り、美容師と談笑しながら髪の毛をカットされていた。

そんな、美容室としてはごく当たり前の光景の中で、わたしもいよいよ椅子を倒されてシャンプーに入る・・という瞬間、店の入り口から一人の男が現れた。それは、近所でピッツェリアを営む友人だった。

 

ニコニコの笑顔で店内へと踏み込んだ彼は、わき目も振らず一目散にこちらへ向かってくる。

美容室のスタッフたちは、全員が各々の対応をしていたことと、そうでなくても彼はしょっちゅう出没するキャラなので、「また来たか」くらいの感覚であることから、あえて声に出して挨拶をする者はいなかった。というか、ついさっきもこの店に現れているので、それこそ本当に「また来た・・なんだ、忘れものでもしたのか?」くらいの感じなのだろう。

 

というわけで、「目が合ったし、とりあえず声をかけておこう」と思ったわたしは、口を開いていざ言葉を発しようとしたところ、そんなわたしの行動を察知した彼は人差し指を口の前に立てて「シーッ」という素振りを見せた。

——要するに「声を出すな」ということだ。

 

(スタッフたちを驚かすつもり?いや、他の客たちに気付かれたくないということ?)

行動の意図が読めぬままわたしの真横へやってきた友人の手には、なぜか箸が握られていた。そしてその先には・・なんと「焼き立ての牛肉」が挟まれているではないか!!!

 

どうやら本日、彼の店に和牛の生産者らが集まっているらしく、完全放牧で育った健康的な牛の肉を、わざわざ運んできてくれた模様。

そんな「運び屋」の友人は、相変わらず一言も言葉を発しない。それを見たわたしは黙って口を開けた。すると、まるで打ち合わせをしていたかのように自然と箸が伸び、口の中へ分厚い牛肉の塊が投入されたのだ。

 

(モグモグ・・う、うまい。このしっかりとした噛み応えは、十分な運動ができる環境で育った牛であることを示している。そして、噛めば噛むほど溢れ出るジューシーな肉のエキスと牛肉独自の芳醇な風味が、喉の奥・・いや、鼻の奥でふんわりと漂っている。これぞ正に「牛肉を味わう」ということだ!!)

 

肉が美味いのはいうまでもないが、まるでひな鳥が親からエサを与えてもらうかのように、上を向いて口を開けたら焼き肉が放り込まれた・・という経験は、長い人生の中でも今日が初めて。

自らの手を使わずとも、誰かが食べ物を口の中まで運んでくれる——しかも、よりによって焼き立ての極上和牛が手に入る・・いや口に入るだなんて、こんな贅沢な幸運があっていいのだろうか。

 

 

こうして、見事に餌付けされたひな鳥(わたし)は、これからの人生も友人の背中を追って生きるのだろう。いつかまた、美味しい食べ物を与えてもらえる瞬間を心待ちにして——。