自分の「声」を客観的に聞くには、録音するしかない。そしていざ聞いてみると、想像以上に気持ち悪くて違和感を覚えるなど、自分の声が好きではない者のほうが多いように感じる。
そうなると、声優やナレーターといった声を仕事にする者は自身の生声をどう感じているのだろうか。好き嫌いは主観的なものゆえに判断は難しいが、誰もが「いい声だ」と称賛するような声質ならば、自分自身でもそう感じるものなのだろうか。
声同様に、自身の演奏というのも録音してみないと分からない。とくに、わたしのような素人は他人の耳や録音を頼りに確認をする作業が必要——というわけで、久しぶりにスタジオへ出向いてピアノを録音してみたところ、想像を絶する醜態さに思わず絶句したのである。
(なんなんだ、この「空気読めない関西人のオッサン」みたいな演奏は)
”関西人のオッサン”に対する偏見は、あくまでイメージなので悪しからず。それよりも、わたしの演奏を例えるばらな、
「雰囲気のいいこジャレたカフェにて、無作法にも電話をかけはじめた関西人のオッサンが、唾を飛ばしながら大声で会話をしたり下品な笑い声をあげたりしている」
という感じだった。要するに、その場の雰囲気をぶち壊すような恐ろしいピアノを披露していたのだ。
まさかこんなにも酷い演奏をしていたとは、寝耳に水である。
当然ながら、わたし自身はそれなりのイメージを持って練習してきたわけだが、先日のレッスンで「海外の教会へ行ったことはある?そこで流れていてもおかしくない演奏であってほしいのよ」と、狼狽した師匠に懇願されたことを思い出す——あぁ、そりゃ「頼むから、どうにかしてくれ!!」と言いたくもなるわな。
曲が持つイメージや和声の意味など、演奏するにあたり考えなければならない表現については置いておいて、まずは「その場(曲)に相応しい音楽であるか否か」がどれほど重要であるか、そんな初歩的な第一歩を思い知らされたわたし。
神へ祈りを捧げる音楽であるにもかかわらず、賑やかで激しい踊りのようにガンガン叩きつけたのでは、問答無用で教会から追い出されるだろう。そしてわたしは、言うまでもなくそんな野暮な演奏を試みたわけではない。
自分の中では「冷たい空気が漂う空間で、神へ許しを乞うような荘厳な音楽が流れている」というイメージだったのだが、聞いてびっくり。滑らかさの欠片もない、ぶっきらぼうで荒々しい——言い換えれば「神への冒涜」のような演奏だったのだ。
少し前に、師匠から「あなたの演奏は、子どもが本を読んでいるかのように(感情がこもっておらず、ぶっきらぼうに)聞こえる」と言われたことがある。その時は「なるほど、言い得て妙だ!」と変に感心してしまったが、あれはかなりオブラートに包んだ表現だったのだ。
本当は、「あなたの演奏は、携帯電話の使用禁止エリアで大声で電話をする、下品かつマナー違反のオッサンのようだ」と言いたかったのだろう。子どもが棒読みするならまだしも、場の雰囲気やマナーを無視してまで自身の欲望を貫き通すという、まさに下劣で恥ずかしい行為を堂々と披露していたのだから。
ここへ来てわたしは知った。少なくとも、曲の雰囲気にそぐわない演奏だけはしてはならない——と。それと同時に、「これこそが”音を聴く”ということなのでは・・」という事実にたどり着いた。
今までは「音を聴こう、とにかく聴こう」と必死だった。だが、実際にはそんな特別なことではなく、「曲の雰囲気から外れないように、とりあえずバランスをとろう」ということが、まずは必要だったのだ。
老朽化した吊り橋を渡る際に、飛び跳ねたり揺さぶったりしたら危険であるだけでなく、他の通行人にも迷惑がかかる。そこはやはりそっと歩くべきだし、周囲への注意を怠らないよう慎重に進むべき。
そんな当たり前のことが、わたしには出来ていなかったのである。
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蛮族が聖職者へ昇格する日は、いつになるやら。










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