この世には「時間」という普遍の概念があり、どれだけ大金をはたいても時を止めたり早めたりすることはできない。
体感的には、光陰矢の如しとか一日千秋(いちじつせんしゅう)と言われるように、当人が置かれた状況(どちらかというとメンタルに起因する)によって早くも遅くも感じられるわけだが、それはあくまで「そう感じる」だけで時を刻むリズムやペースが変わるわけではない。
ちなみに、曹洞宗の開祖である道元は「時間とは何か」について、仏教書である正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)の「有時(うじ)の巻」にて、このように記している。
「(仏は)あるとき(有時)は高い山頂に立ち、あるときは深い海底を行く….
松や竹にも時間はあり、我にも時間はある….
存在とは時間であり、時間とは存在である…
時間がなくなってしまえば、山や海もなくなってしまう….
時間があるということは、生きているということだ….(口語訳)」
道元曰く、「あるとき」というのは「有(存在)と時(時間)」を指しており、時間と存在または空間というのは切り離せない関係性にある・・と説いている。
そして、松や竹などの植物のみならず、山や海といった地球の構造物も、我々ヒトと同じく時間と存在でできている——要するに、この世に存在する物質はすべて、時間が流れる中でたまたま今その形に見えている「現象」であり、時間が止まればその変化(存在)も消えてしまう・・ということなのだ。
それにしても、科学をはじめとする学術が未発達の鎌倉時代において、「時」という当たり前で不思議な概念を言語化できるとは、道元おそるべし。
なお、現代物理学の象徴であるアインシュタインは、「時間と空間(場所や物質)は別々のものではなく、『時空』という一つの織物のようなものだ」という考えを示しており、これは道元が説いた「時間がなくなれば、山や海もなくなる」という思想を、自然科学の理論で言い換えた(証明した)ともいえる。
ということは、「時間という次元がなければ、物質(山や海)は存在するためのスペースすら持てない」という物理の真理を、僧侶であり宗教家の道元が800年前の時点で直感的に察知していたわけで、後世に名を残す偉人というのは、なんともおそるべき頭脳と洞察力を持っているものだ・・。
——などと、わざとらしく時間の概念を脳内で整理したわたしは、改めて上体を起こすと壁に掛かった大きな時計を見つめた。
ちょっとだけ仮眠をとろう・・と、ソファにもたれかかりながらまぶたを閉じたのは午前9時前のこと。そして今、時計の針は午前10時36分を指している。
わたしからすればゆっくりと瞬きをしただけの、ほんの一瞬の出来事だったつもりが、現実的には一時間半もの時が流れていたのだ。
なにか作業をしながら刻々と過ぎる時間経過の速さに驚くことはあれど、なにもせずにまばたきをしたら一時間半が過ぎていたというのは、悔やむに悔みきれない空虚な感覚に苛まれる。
そして、取り返しのつかない過去——しかも、記憶の上では「無」の時間を過ごしたわけで、ただ呆然と佇むしかないわたしは、哀れで貧相な地蔵のようだった。
一瞬一瞬の積み重ねが振り返ったときに「時間」を構成しているのであれば、十分とはいえない人生の残り時間を、なるべくならば意志のある、いや「意識ある」一瞬で構築していきたいと願うわたし。
(それにしても、スマホのアラームは鳴ったのだろうか・・聞こえなかったのだが)










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