「もちろんです」(イラッ!)

 

外国人からすると、なんら違和感なく使っている言葉かもしれないが、日本人からするとちょっとイラっとくる言い回し・・というものがある。それは「もちろんです」という言葉だ。

外国語で「もちろんです」と訳される表現は、「はい」という肯定の意味を強調したり、より強く主張したりするために用いられるため、日本語でいうところの「そうそう、そこな!」とか「よくぞ聞いてくれました、まさにそれなんですよ!」というような、同じ肯定であっても「もちろん(当たり前)ではないことに、相手が気づいてくれた際」などにも使われる。

そのため、外国人からすると「いいところに気付いてくれて、めちゃくちゃ嬉しい!」という気持ちを表すために「もちろんです!」と言ったつもりが、会話の内容や流れによっては「え、そんなの当たり前だって言いたいの?・・なにその上から目線」などと、相手を勘違いさせる場合もあるのだ。

 

たとえば、既存の常識では困難だった成果を出した相手に対して、「すごい、ここまでやれたんだ!?」と驚愕および称賛する場面があったとしよう。相手が日本人ならば、やや謙遜を交えつつ「そうなんですよ、どうにかここまで頑張れました」という風に、ただ単に肯定するだけでなく”頑張りぬいた末にたどり着いた感”を用いた表現をするだろう。

ところが外国人——と、ひとくくりにしてしまうと誤解を生むが、便宜上そうまとめさせてもらうと、称賛された外国人は心境としては日本人と同じなのだが、発する単語として「もちろんです」を笑顔で言い放った結果、言葉の端々にどこか”当たり前だろ感”が出てしまうのだ。

その返しを受けた日本人は、

(いやいや、当たり前にできるのならば今までだってできただろ。ギリギリのところでクリアしたわけで、よくぞ偉そうに「当然のこと」みたいに言えるな・・)

と感じなくもないのである。

 

外国人側からすると、「もちろん」のイメージは「Yes」の上位互換であり、たとえるならばGood→Better→Bestのような比較級あるいは最上級の感覚だろう。もちろん、その理解で間違っていないし、実際にそのとおりではある。

だが、目に見えない「空気や行間を読む」ことのできる——あまり大声では言えないが、”忍者の血が流れるわれわれ日本人”にとっては、単純に言葉が持つ本来の意味だけでなく、そこまでの流れや雰囲気に沿ったワードチョイスというものが存在するのだ。そのため、あえてイラっとさせる言い回しにしてみたり、逆にオブラートに包んだ表現にしてみたりと、会話で使う言葉を「言語」としてのみならず、場の雰囲気を構築するためのツールとして使い分けているのだ。

 

そのような”生まれ持った特殊性”を装備する日本人に対して、喜び勇んで「そうなんですよぉ、よくぞ聞いてくれました!」と涙目で感動や感激を表したつもりが、「当たり前です、そのくらいのことはできて当然ですから!」と、ドヤ顔で小バカにするような印象を与えてしまった場合、どれほどすばらしい結論や成果物を提示したとしても、その人物に対する心証はイマイチなものとなる。

「相手は外国人で、不慣れな日本語を頑張って使ってくれているのだから、そんなことでイチイチ腹を立ててもしょうがない。もっと寛大な心で成果や結果について耳を傾けよう!」

——そう思い直して改めて話を聞くのだが、ところどころで「もちろんです」が登場する場面があり、そこが本来ならば「そうなんです」や「そのとおりです」を使うべきニュアンスだったりすると、どうしても引っかかってしょうがないのだ。

(あぁ、わたしはなんて器の小っちゃいニンゲンなんだ・・)

 

 

たかが会話、たかがコミュニケーションではあるが、わたしのような心の狭い者にとっては、結果よりも過程を重要視する傾向が強いのかもしれない。

であれば、相手が人間ではなくAIであるほうが上手くいく——そういえば、近所のタリーズへ寄りつかなくなったのも、店員の接客が生理的に不快であることが原因だった。その時、「この店員がニンゲンじゃなければ、嫌な思いをせずに済むのに」と感じたことを思い出す。

コーヒーを買いに行っているのだから、最終的にコーヒーを手に入れられれば、それこそが「求める結果」のはず。だがわたしは、その過程で不快な思いをするくらいならばコーヒーを諦める・・という選択をしたのだ。なぜなら、嫌な思いをしてまで手にしたコーヒーが、美味いはずもないから——。

 

ニンゲンとは、複雑で繊細な生き物である。