わたしは人生で二回ほど、街中で”尻尾を垂らしたニンゲン”を見たことがある。
一人はサラリーマンと思しき中年で、もう一人は上品なお姉さん風の女性。だがわたしは、二人の顔を覚えていない・・というか見ていないので分からない。ただ単に、彼らの背中から尻尾が生えていることを——そう、「白い尻尾」の存在を視認しただけだからだ。
*
有楽町線を降りたわたしは、とてもじゃないが階段など使いたくない長さのエスカレーターに乗ると、はるか前に立つ女性の後ろまで降りていった。
エスカレーターは止まって乗るのが基本。そのため、「急いでいるから」といって右側を歩くのは、マナー違反というか危険行為にあたるので緩やかに禁止されている。
たしかに、海外で空港などのエスカレーターに乗ると、右側にも左側にもヒトが立っており「どちら側に寄らなければならない」というルールはない模様。とはいえ、多くの都市では暗黙の了解で「左側は止まっている人、右側は歩く人(その逆パターンもあり)」という不文律が存在するのである。
そんなことを思いながら、ふと前に立つ女性の後ろ姿に違和感を覚えた。
(あれ・・ワンピースのベルトか何かか?)
春らしくトレンチコートを羽織ったその女性、コートの裾からベルト・・いや、リボンのような白いひもが垂れていたのだ。あと少しでエスカレーターの床に触れてしまいそうなほど、危なっかしい長さである。
エスカレーターの降り口付近で、ひも状の物や薄っぺらいサンダルが吸い込まれる・・という事故が多発している。今回も、あのひも状の何かが吸い込まれでもしたら、彼女自身も引っ張られて転倒しかねない——。
そんな「最悪の事態」が脳裏をよぎったわたしは、まずはアレが何なのかを近くで確認することにした。ステップを一段、また一段降りて行く・・まさか、トイレットペーパーじゃないよな?
トレンチコートの裾と地面との距離は30センチもない。その少しの隙間から覗く白いリボンのようなひもが、一瞬、トイレットペーパーに見えてしまったのだ。
(いやいや、そんなはずはない。きっと、中に着ているワンピースかなにかのリボンが解けてしまったのだろう)
ならば、どのようなワンピースのリボンなのか。夏用のワンピースで、腰にゆるやかなリボン(ベルト)が巻かれたデザインを見たことがあるが、まだそういった装いには早い季節である。しかも彼女はトレンチコートを羽織っており、おそらくは仕事帰り。それなのに、あんなにも白くてフワフワなリボンのワンピースを、着用するだろうか——。
興味というよりは、むしろ不安を払拭するべく彼女の背後へと接近するわたし。そして、あと一歩で真後ろ・・という距離に近づいたところで、コートの裾から見える白いリボンの先端が、まるで紙を破ったかのようにギザギザで不揃いな断面であることを確認した——トイレットペーパーだ。
この場合、わたしがとるべき行動として正しい(効果的な)のは、本人にも気づかれないようにトイレットペーパーを剥ぎ取ることだろう。
そうすれば、自宅でペーパーの残骸に気付いたとしても「コートで隠れていてよかった」と安堵できるし、このまま食事へ向かうとしても長いペーパーを垂らしておくよりはマシ。なによりも、本人に恥ずかしい思いをさせずに済むのだから、ここは”なんでも屋(わたし)”が暗躍するに相応しい場面といえる。
だが皮肉にも、彼女は裾の長いコートを着ているため、地面すれすれでなびいているペーパーを引きちぎるには、わたし自身がしゃがみこんで彼女のふくらはぎ付近でゴソゴソやる必要がある——そんなことをしたら、問答無用で不審者扱いされたあげくに暗躍計画が台無しに。
そこでわたしは考えた。
物理的な行動に出るのはちょっと無理がある。ならば、エスカレーターから降りる瞬間に「通りすがりの見知らぬオンナが、そっと耳打ちをして去っていく」というシチュエーションで、いま起きている”事件”をシレっと伝えるのはどうだろうか。
幸いなことに、エスカレーターに乗っている間はわたしが彼女の背後をガッチリと守っているため、ほかの誰かにペーパーの存在を知られることはない。仮に、お節介おばさん的なキャラが現れでもしたら、そいつが口を開けた瞬間に頭突きを食らわしてやろう。
こうしてわたしは、姫を守る騎士(ナイト)モード全開で彼女の背中をガードし続けた。そしていよいよエスカレーターが終わる・・というところでスッと右へ踏み出すと、今度は”通りすがりの風来坊”を装い、
「あのさ、もしかするとトイレットペーパーが付いてきちゃってるかもしれない。コートの裾から見えてるから、ちょっと確認してみて」
と小声で告げると、彼女の顔を見ることなく足早に去ったのである。
*
結局のところ、あの女性がどんな人だったのかは分からず仕舞いだが、通過する際に突然「あのさ・・」と話しかけたわたしに対して、彼女は驚く様子もなく「うんうん、どうした?」と耳を傾けてくれたのは意外だった。
普通に考えれば、通りすがりにいきなり小声で話しかけられるなど、不審者以外のなにものでもない。にもかかわらず、咄嗟にノリのいい反応ができることから想像するに、彼女は社交的かつ善人なのだ。あぁ、身近にいたらきっと友達になっていただろう——。
とにもかくにも、殊に女性は「白い尻尾」を生やさぬよう注意しなければならない。











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