老婆を助けるフラグ

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昔から存在する遅刻の理由として、王道かつ不可抗力といえるのが「来る途中でお年寄りが倒れていたので、助けていたから遅刻した」だろう。そして、その理由を聞いた大半の者は「あぁ、こいつ嘘ついてるわ」と思うのである。

わたしですらそんな話を聞かされたら「どうせなら、もっとまともな嘘つけよ」と思うし、遅刻するくらいならほかの通行人にバトンタッチするとか、なにか別の手段をとればいいだろう・・と、冷酷非情な考えが湧いてくるわけで、要するに「老人を助けて遅刻」というのは、待たせた相手への謝罪の際に用いるテイのいい美辞麗句なのだ。

 

そんなわたしは、とある後輩から「明日のセミナー、遅刻しちゃダメですよ」と釘を刺された。そんな当たり前のことをわざわざ後輩に言われるとは、わたしも落ちぶれたもんだ——。そこで、「道中、老人が倒れていない限り遅刻はしないよ」とカッコよく言い返したのである。

対する後輩は「そうであっても老人は無視して、セミナーに遅刻しないようにしてください」と、これまた「人の心ないんか?」と突っ込みたくなるような薄情な発言をするのだが、まぁこれも(おそらく)冗談であり大した意味はないのだが。

 

そして迎えた翌朝、相変わらずギリギリのスケジュール・・といっても、今回は少し早めの到着時刻で設定したので、走らなくても間に合うくらいの余裕がある。にもかかわらず家を出るのが2分遅れてしまったわたしは、予定の電車にだけは乗り遅れまいと全力でダッシュした。

その時、ふと後輩の顔が脳裏を過ぎる——。

(これで遅刻などしたら、それこそ奴の思うつぼだ)

無論、走れば確実に間に合う時間なので、遅刻など微塵も心配していない。走っているのは、電車に乗り込むための確実性を上げる目的であり、むしろウォームアップ程度の感覚。

 

そしていよいよ駅の入り口が見えてきた——とその瞬間、まるでコントのように一人の老婆が立っているではないか。

今日は祝日ということもあり、駅付近に人影は少ない。いや、正確にはわたしと老婆の二人しかいない。そして老婆は、手提げ袋を抱えながら冊子のようなものを手にしている——迷子か。

 

(あぁ、申し訳ないがわたしは急いでいる。これで遅刻などした日には、それこそ「ほら、やっぱり遅刻した」と冷たい目で見られ、信頼を失い社会的に孤立してしまう。だから、本当に申し訳ないがここは目をつむってスルーさせてもらうぞ)

 

本来ならば、困っている者を助けるのが人としての務めであり、社会構成員としての義務でもある。だが今はのっぴきならない事情があるため、ここは泣く泣く「見て見ぬふり」をしなければならないのだ。そんな板挟みの状況にあることを、どうか理解してもらいたい——。そう心の中で念じながら、老婆の横を全速力で駆け抜けた瞬間、

 

「あの、すみません・・」

 

キターーーーーーーーーーーッ!!!

これがゲームの展開ならば、いわゆる「イベント発生」というやつだ。周囲には人っ子一人いない状況で、かたやわたしは急いでおり、かたや老婆は困っている。さぁ、わたしは老婆の呼びかけに答えるのか、それとも無視をするのか・・。

一瞬、ニヤリとほくそ笑む後輩の顔が浮かぶが、ここで老婆を無視して遅刻を免れたところで、後味の悪さは一生もの——やむを得ない、遅刻しよう。

 

覚悟を決めたわたしは、急ブレーキで止まると老婆のほうへ振り返った。すると、

「この病院は、どこにあるのでしょうか・・」

と、これまたわたしとは縁のない、回復期リハビリテーション病院のホームページをプリントアウトした紙を差し出してきたのだ。

 

(なんか見たことのある名前だが、少なくともウチから駅までの間にはない。うーん、ここでグーグルマップを開けばさらに時間を費やすことになるし、「分からない」で乗り切ろうか・・いや、でもわたしが見捨てたら老婆は一生ここを動けないかもしれない)

 

遅刻を覚悟したとはいえ、できれば最小限のダメージで済ませたいわたしは、可能な限り短時間で道案内を済ませたいと考えていた。すると老婆は、何枚もあるコピー用紙の中から、小さな地図が載っているページをおもむろに引っ張り出した。

(ち、小さすぎて分からない!!!)

それは、ホームページ上にグーグルマップが埋め込まれている形式のもので、サイトをそのままプリントアウトしたため、数センチの四角に細かい地図が描かれている・・という、非常に見にくい地図だった。

(これじゃ年寄りには見づらいだろうし、ただでさえこの場所に馴染みのない者には不親切な案内図だな・・)

 

だが、その分かりにくい地図を見ながらわたしは思い出した——あぁ、これは新しくできたタワーマンションの一階にある、リハビリテーションセンターのことだ、と。

しかしながら、当該タワマンへの案内がなんとも難しい。もしも相手が若者ならば「ここを真っすぐ行って、何本目かの道を左に曲がればデカいタワマンあるから、それに沿って進んでいけば右手にあるよ」で済む話だが、そんな適当な伝え方ではおそらく迷ってしまうだろう。

かといって、わたしがこの施設まで手引きするというのは、もはやセミナー不参加と同じ意味を持つため、さすがにそれはできない。あぁ、いったいどうすれば伝わるんだ——。

 

八方塞がりのわたしが天を仰いだその瞬間、視界の先にほんの少しだけ、タワマンのてっぺんが見えるではないか!!すぐさま、老婆の腕をつかむと道路の真ん中まで引っ張っていき、

「あれ見て!あそこにデカいビルが見えるでしょ?あれの一階の奥にあるから、どうにか自力であそこまでたどり着いて!」

と、目的地の建物を指さした。巨大なタワマンであるのは間違いないが、よほど遠くに思えたのか「でも歩くと時間かかるでしょ?」と心細げに呟く老婆に対して、

「全然近いよ!ここから2分で着くから、あのビルめがけて意地でもたどり着いて、ね!!いいね?!」

と言って、彼女の小さな背中をドンと押してやった。

 

——そう、上を向いて歩けばいいんだ。とにかく頑張ってたどり着いてくれ。

 

 

こうして、数分のタイムロスを余儀なくされたわたしだが、電車の遅延やダイヤの乱れにより「もしかすると間に合うかも」という期待を胸に、再び全力で走り出した。

改札をすり抜け階段を駆け下りて・・あと少しでホームのフロアというところで、「ドアが閉まります、ご注意ください」という無機質なアナウンスが聞こえてきた——あぁ、やっぱり間に合わなかった。

 

それでもいいのだ。老婆を置き去りにして時間に間に合うより、人助けをして遅刻するほうが何倍も気分がいい。しかも、どうせ毎回遅刻しているのだから、今日たまたま間に合ったところで、そっちのほうが奇跡に近いわけで——。

 

とにかく、前日に「フラグ」を立ててしまったことを悔やむ、わたしなのであった。

 

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