半狂乱のシャーマン現る

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(また膝を痛めたか・・・)

一か月ほど前、柔術の練習中に右膝を負傷したわたしは、歩けないほどの痛みから抜け出した後も、微妙な違和感というか鈍痛を抱えながら日常生活を送っていた。

 

これはもはや古傷のようなもので、生々しい損傷というよりは蓄積疲労による怪我のため、当然ながら無理に膝を使うことはしないが、かといって固定したり必要以上に動かさなかったりすることは避けてきた。

だが、怪我というのは不思議と気の抜けた時に起こるもの。逆にこちらが臨戦態勢で待ち構えている時は、たとえ相手が暴れん坊だろうが重量級だろうが、どこかを痛めることはほぼないわけで。

しかし、ちょっとでも気を許したり、または気分が乗らなかったりすると、大した動きじゃなくても思わぬ事故につながることがある。そして今日、まさにそんな出来事に遭遇してしまったのだ。

 

とはいえ、膝であれ腰であれ怪我をすることにかけては百戦錬磨のわたしは、今回も「痛めた!」と察知した瞬間に回復までの日数を脳内ではじき出すと、冷静にそれを受け止めた。

(まぁ、やっちまったもんは仕方ない・・)

痛いだの痒いだの騒いだところで何も変わらない。ならばいち早く、怪我の状態と回復までの時間を逆算するほうが建設的である。なぜなら、いつまでもグズグズとその場で立ち止まるより、回復に向けて切り替えるほうが精神衛生上健全だからだ。

 

こうして、足を引きずりながら帰宅したわたしは、コーヒーを啜りつつ考えた。

(とはいえ、何もしないより何かしたい気もするな)

膝を痛めた際の定番といえば、やはりアイシングと湿布だろう。やりたてホヤホヤの場合、患部に炎症が起きている可能性が高く、そこはとりあえず冷やしておくのが妥当・・という流れを思い浮かべたが、残念ながら我が家に湿布の在庫がないことと、氷で冷やすほど熱を帯びていないことから、「冷やす」という選択肢は不採用となった。

(となると、残るはアレの出番か)

一時期、足関節の治療で頻繁に使っていた”お灸”の存在を思い出したわたしは、「どうせ古傷みたいなもんだから、ここはいっちょお灸でもすえてみるか」ということで、引き出しの奥からせんねん灸オフ伊吹を取り出した。

 

面(ツラ)の皮のみならず全身の皮膚が厚いわたしは、お灸の熱さにめっぽう強い。そんな特性(?)を生かして一度に何か所も火をつけるのが常であり、お灸のたびに我が家は玉手箱をひっくり返したかのような白煙地獄となっていた。

こうなると着ている衣服は勿論のこと、ソファやベッドにまでスモーキーな香りが染みつくため、しばらくは窓という窓を全開にして空気を循環させなければならない——これが面倒で、お灸をやめたんだ。

 

そんな苦い思い出を振り返りながら、せんねん灸とライターを持ったわたしは玄関の外へと出た。

(ベランダだと近隣の住人に迷惑がかかるが、非常階段の真ん中でお灸をすえれば万事オッケー、ということだ)

こうして階段に腰を下ろすと、さっそく膝の内側3か所にお灸をすえてやった。

 

まるで鉄を打ったかのような鈍重な火種を眺めつつ、ふと視線を上空へと反らせた。夜空の手前には、煌びやかな高層マンションがそびえ立っており、ほとんどの部屋に明かりがついている。あぁ、裕福なシロガネーゼたちが、高級ワインを揺らしながら至福の時を過ごしているのか——。

日が沈んだ後だというのに、店や建物の照明に照らされた夜空は、白い雲がはっきりと視認できるほど明るい。そんな都会の自然現象に慣れてしまったわたしは、東京に魂を売った国賊であり、もう二度と田舎暮らしはできないだろう。

 

柄にもなくノスタルジックに耽っていたところ、いつの間にか火種は消えて炭となっていた。

しかしながら、いくら屋外とはいえ階段に座った状態でお灸をすえたのでは、髪や衣服に煙のにおいが付着するのは免れない。とりあえず、部屋に戻ったらファブリーズするしかないな・・などと思いながら玄関の前まで歩いてきたところ、なんと、この辺り一面が煙臭いではないか!!!

 

最初は鼻がバカになったのでは・・と自身の嗅覚を疑ったが、念のため階段付近まで戻って臭いを嗅ぐも、そこではなんのスモーキーさも感じない。そりゃそうだ、吹きさらしのペントハウス階なのだから、当然である。

そして再び部屋の前、すなわちエレベーターホールまで戻ってくると、やはり明らかにスモーキーな空気が充満している。そう、我がマンションは、エレベーターホールから奥は屋根と壁で覆われた半屋外・・という作りのマンションなのだ。

 

(まずい・・空気の逃げ場がないどころか、階段側からの空気が全部こちらへ向かってくるじゃないか!!)

 

同じフロアには3つの部屋があるが、いずれもいい人たちなのでできる限り良好な関係を保ちたい。にもかかわらず、なんらかの異変に気付いてドアを開けられでもしたら、「なんだこの煙臭さは?!」と騒がれて、ちょっとした事件に発展しかねない。

かといって、吹き溜まりのようなこの場所に停滞しているスモーキーを消すには、扇風機かブロアーで空気を回さなければならない。そんなものあるわけ・・・あ、あるじゃないか!!!

 

——勘の鋭い者は既に気がついただろう。そう、わたしがサーキュレーターになればいいじゃないか・・ということで、隣人の玄関前からエレベーターの前までを、何度も何度も走り回ったのである。

時には両手を広げ、時にはグルグルと回転し、時にはスキップを繰り返しながら、ありとあらゆる体勢で風を巻き起こすわたし。

 

(もしも今、タイミング悪く隣人が出てきたならば、煙の臭い云々以前に完全にアウトである。真剣かつ半狂乱なわたしが、まるでシャーマンのように全身全霊で奇異な舞に陶酔しているのだから・・・)

 

 

結論として、我がマンションでお灸をすえるのは無理なのかもしれない・・ということが、なんとなくわかったのである。

 

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