モーツァルトの幅を広げた結果、登場した人物

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「悪くないわよ、ただ・・なんていうか小さくまとめ上げてるというか、こじんまりとしているというか

大の苦手であるモーツァルトのソナタを、丁寧かつ精魂込めて弾き終えた直後に、先生はボソッと呟いた。そして、さらにこう続けた。

「私自身が先生から言われるんだけど、もしかしてこういうことなんじゃないか・・って、いま聞いてて思ったわ。音のレンジをもっと広く持つべきだって」

 

その言葉を聞いたわたしは、なんだかとても納得できた。

——そりゃそうだ、こちらとて伸び伸びと気持ちよく弾いているわけではない。ただでさえ上手く動かない指を駆使して、モーツァルトらしくキラキラと粒の揃った音を目指そうと必死。さらに、わたしがフォルテで弾くと、鍵盤をガンガン叩きつけるかのような凶暴さが出るため、あくまでモーツァルトであることを念頭に置きながら、精一杯いい子を演じているのだから。

しかも、自分自身で「これこそがモーツァルト」と思っているのだから、これ以上どうやってモーツァルトらしさを出さばいいというのか。レンジを広げろ・・って、そんなことをしたらまた昔へ逆戻りじゃないか——。

 

それでも「できません」とは言えないので、黙ってやるしかない。とにかく、大きな音・・つまりフォルテを頑張るのではなく、小さな音(ピアノ)のレンジに幅を持たせることを考えた。

(いずれにせよ音量に限界はある。だったら、弱い音を広げつつうるさくない演奏を心がければどうにかなるんじゃ・・)

ごちゃごちゃと御託を並べたところで解決にはつながらない。というわけで、さっそく「レンジを広げたモーツァルト」に挑戦することにしたわたし。

 

念のため、弾く前に「このくらい出してもいいんですか?」と、フォルテの音量について先生に尋ねたところ、「全体で聞いてみないと分からないから、とりあえずやってみて」と一蹴された。加えて「あと、ペダルももっと入れてみて。試しに・・だから色々やってみて」と、わたしに全権を委ねることが約束されたのだ。

(先生がそう言うのならば仕方がない。どうなっても知らないからね・・)

というわけで、わたしによるわたしらしいモーツァルトが始まったのである。

 

 

自分の耳で聞こえる音というのは、目の前にあるピアノの中から出てくる音なので、正直なところ、どこまで音量の差を出せているのか分からない。というか、わたしのピアノを聞いている先生の耳に、どう聞こえているのかが分からないのだ。

それでも、とにかくピアニッシモを大切に、それでいて音が抜けたりふにゃっとなったりしないように、弱い音を全力で弾く努力を試みた。

——弱い音って、こんなにも力を使わないと出せないものなのか。

 

単純なイメージでは、強い音は全身を使って鍵盤を力いっぱい叩きつけて、弱い音は力を抜いて撫でるように弾く・・という感じだろうが、実際はまったくの逆。

強い音こそ、腕の力を抜いて下半身から湧き出るエネルギーを鍵盤へ流し込まなければならない。その逆に、弱い音になればなるほど腹筋の震えに耐えながら体幹で支えなければならない。これほどまでに、弱い音を力いっぱい弾いたことは、今までになかったな——。

 

そして、これはまったく気持ちのいいものではなかった。なぜなら”ものすごく疲れる”からだ。

とくに、弱い音を維持するのは筋力と精神力を同時に振り絞る必要があり、疲労感が半端ではない。むしろ、途中で気持ちが負けてしまい音が抜けることも。それでも、ピアノ(小さい音)の幅を持たせなければ、全体的な音量のレンジを広げることができないので、どれほど過酷なスポーツや格闘技をするよりも体幹に鞭打って耐えた。

言い換えるならば、これはまさに筋力とメンタルのトレーニングである

 

それにしても・・なんだろう、この既視感は。なにか別の曲を弾いている感じがする。なんだったかな、誰の曲だったかな——。

 

 

こうして、”懇親のレンジ幅のモーツァルト”を聞き終えた先生は、再び、ボソッとこう呟いた。

「なんか、ベートーヴェンを聞いているようだったわ」

 

——そうだ、ベートーヴェンだ。

わたしも、弾きながら薄々そう感じていた。これはモーツァルトというより、ベートーヴェンみたい・・つまり、モーツァルトの曲としてはまるで弾けていないなと。

 

結局、レンジを広げれば他者の曲調になってしまうわたしは、モーツァルトという高い壁を超えるどころか、触れることすらできないのであった。

 

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