人生初の過呼吸を経験することとなった前夜、わたしは友人と食事をした。友人の名はスズ(仮名)。
スズの職業は彫師(タトゥーアーティスト)だ。
化粧映えするシンプルな顔に黒髪を腰までのばし、スラリと細身の彼女はごく普通の女の子。ヨガとカポエイラが趣味であるスズとの会話は、もっぱら呼吸について。
「呼吸ってさ、すごく大切なの」
彫師から呼吸のレクチャーを受けるわたし。
「呼吸の基本は吐くこと。吐いたら吸うしかないからね」
呼吸などを意識したこともないわたしは、その珍しい話に聞き入る。生きていれば息をするのが普通で、あえてその仕組みについて考えることなどないわけで。
それでも「素晴らしい呼吸」というやつに興味を抱いたわたしは、スズ先生のもとで「息を吐くこと」の練習をした。
場所は下北沢の路地裏にあるタイ料理屋。店員も客もタイ人しかいない。シンハービール片手に、女二人でスーハー呼吸をくり返すシュールな状況。時間は流れ終電ギリギリに店を出た。
その数時間後、わたしは「過呼吸」という未踏の地へ足を踏み入れたのだった。
過呼吸の仕組みはこうだ。
二酸化炭素を必要以上に吐き出すことで、血液中の炭酸ガス濃度が低くなる。炭酸ガス濃度の低下を抑えるため、呼吸をつかさどる中枢神経が呼吸を抑制する。抑えられた呼吸により息苦しさを感じ、余計に激しく呼吸をするためパニックに陥る。痙攣(けいれん)や失神などの身体症状を伴う場合もあるが、いずれも数分から数十分で改善する。
呼吸方法を数時間前にみっちり学んだわたしは、吐くことに集中し、呼吸を整え難を逃れた。こんな偶然があるだろうか。
スズに命を救われた気分だ。
*
スズは仕事でも人の命を助けている。
スカー・カバー・タトゥー(Scar-Covering Tattoos)をご存知だろうか。
手術痕やリストカットの痕をアレンジするタトゥーのことで、海外ではかなり浸透しているカバーアップ方法。
人は誰でも失敗や後悔を経験する。時が経つとその痕跡を「消したい」と思ったりもするが、物理的に不可能な場合もある。そんな不可能を「消す以外の方法」で可能にするのが、スカーカバーだ。
生々しい傷跡とその周囲をタトゥーでカバーアップするが、ただ単に「隠す」というより「活かす」という感覚。
これまでの人生を否定せず活かすことで、これからの人生を謳歌する。
そんな決意表明であり、自分を愛するための手段でもある。
スズは美大出身ではない。それどころかイラストや絵画について専門的に学んだこともない。しかし彼女が仕上げるタトゥーは、命を吹き込まれた美しさがある。
先日見せてもらったスカーカバーは、過去にリストカットを経験した男性の腕だった。数十本を超える右腕のカット痕、そこへ交わるように、並行するように、複数のカラフルな「虹」が描かれている。傷跡の皮ふの反射とレインボーが重なりポップな輝きを生み出す。
「リストカットも今の自分を作ってくれた過去。だから、大切に彩りたいと思う」
そう微笑む彼の右腕に、ネガティブなスカー(傷跡)はもう存在しない。
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家族同然に愛し、生活を共にしてきたネコを亡くした友人がいる。
二人の出会いは10年前、土砂降りの雨のなか瀕死状態のネコを見つけた。そこから、引き寄せられたかのように二人の生活が始まった。
「最期の瞬間、シロの口から魂が出ていくのを見たんだ」
シロが天国へ旅立ってから一年が過ぎるが、彼女の中ではまだこの世にいる。
わたしは友人をスズへ紹介した。じつはスズもネコを2匹飼っており、ネコ好きに共通するネコ愛のようなものが、スズとなら繋がるのではないかと思ったからだ。
友人は、シロの画像のなかでもお気に入りの数枚をスズへ送った。
施術日、さほど凝った準備も下書きもしていないスズ。彼女はいつだってそうだ、彫りながら命を吹き込んでいく。不安そうな友人を横目に、施術が始まった。
二人の歩んだ現世の人生(猫生)を少しずつ、確実に刻んでいく。
「できたよー」
スズの声。そして友人の腕には見事なシロの分身が描かれている。
写真そっくりのシロを見て、わたしは思わずゾッとした。
飼い主を見つめるその目は、生きていたころのままではないか。肩や腕の凹凸によりシロの表情が変わるあたり、まるで生きているようだ。一年ぶり、鏡越しにシロと再会した友人は涙ぐんだ。
(鏡より生で見るシロはもっと見事だよ)
そう思ったが、角度的に本人には見えないので伝えるのをやめた。
友人はきっと、これからもシロとともに今を生きていくはずだ。
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心の傷をいやすには、忘れるか乗り越えるしかない――。普通はそう思うだろう。しかしスズは「ともに生きること」を叶えてくれる。
「現実から目を反らさず、過去も未来も受け止めよう。いいことばかりの人生じゃないけど、悪いことも気に入るように魔法をかけてあげる」
スズは人の命を救ってくれる、魔法使いのような女の子だ。
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