都会の車内から  URABE/著

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いつぶりだろうか。電車で立ちながら夢を見るほど眠ったのは――。

 

地下鉄・有楽町線に乗りこんだ私は、座席が空いていないことを確認するとドアにもたれかかった。大きなリュックを背負っているため、お辞儀をしながらリュックを持ち上げて、背中で高い位置をキープしながら体を起こす。すると荷物の重さを感じずに、かつ、バランスよく斜め後ろにもたれかかることができるのだ。

こんな器用な技、誰に習ったわけではないが、リュックを背負う人は皆この方法で重さを和らげているだろう。

 

在京歴20年の私は、有楽町線でどちら側のドアが頻繁に開くのかを知っている。記憶しているというより、体に染みついた感覚として覚えている。当然、下車駅である池袋まで開かない側のドアによりかかると、視線の先にある路線図を眺めながら目を閉じた。

 

地下鉄というのは、地上の電車と比べると無駄が少ない。駅同士の間隔も狭く、発車したと思えばすぐに停車の準備に入る速さだ。さらに天候にも左右されにくいことから、安定したダイヤでの運行を提供してくれる。

そんな「開かずの左側」で私は、しばし睡眠に入る。

 

さすがに立っているわけで、爆睡というのはあり得ない。いびきをゴーゴーかいてヨダレを垂らしていたら、そいつはかなりの大物といえる。だが今日の私は、通過駅のアナウンスも聞こえなければ、自分が車内で立っていることも忘れるほど、深い眠りについていた。

今となってはどんな夢を見たのか鮮明には思い出せないが、なんとなく、私がサラリーマンで上司からこっぴどく怒られていた気もする。あと、抱えきれないほどの来年度のカレンダーを運ばされて、お決まりのコントのように階段で転んでばら撒いた気もする。

なぜか夢というのは、いつだって失敗をする。怒られたり、取り返しのつかないことをしでかしたり、殺されたり――。

 

そんな夢にもかかわらず、願わくば目を覚ましたくないと思った。夢であるという意識はないのだが、ありきたりな会社員の人生がうらやましくもあり、幸せだと感じていたようだ。

現実の生活に満足していないわけではない。仕事での失敗もできるだけ避けたいのは当たり前。でもなぜか、誰かに叱られて謝罪して、泣きながらも進み続けるという単純な職場生活に、若干のあこがれを抱いているのかもしれない。

 

私は自由人だ。誰かに縛られて生きるなんてまっぴら。

 

そう言いながらも満員電車にちょこんと座り、睡眠不足の目をこすりこすり会議資料のチェックをしつつ、気づいたら隣りのオッサンにもたれかかって寝ているような、くだらない社畜人生というのも悪くない。

金が稼げるから成功者なのか。自由を手に入れたから成功者なのか。

社会から疎外され毎日一人で過ごす私にとって、大勢の人間で混み合う車内は、唯一無二の社交場に近い存在なのかもしれない。見知らぬヒトで埋もれたこの空間、そこにいる彼らもまたそれぞれの人生を歩んでいる。

社畜かもしれないし、フリーランスかもしれない。幸せかもしれないし不幸かもしれない――。

 

かつて新卒で就職活動に励んでいた頃を思い出す。社会生活が何なのか、勝手な想像を膨らませていたあの頃、私はたしかに無知だった。そしてまさか、今のような生活を送っているとは夢にも思わなかった。

 

今が幸せかどうかはわからない。だが重いリュックをドアへ押しつけながら、立ったまま心地よい揺れに合わせて眠るこの瞬間だけは、幸せだといえる。

 

 

(了)

 

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