苦い茶の思い出

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「お茶というのは老人が飲むものだ」

小学生のわたしは、憎々しげに目の前の湯飲みを睨みつけていた。なぜ子どもが朝からアツアツのお茶など飲まなければならないのか。

まぁお茶に罪はない。朝っぱらからお茶を飲ませようとする、ウチの親がどうかしているのだ。

 

子どもの飲み物というのは、フレッシュなジュースか牛乳と決まっている。

願わくば牛乳も勘弁だ。カラカラの喉を潤す、搾りたてのオレンジジュースや目が覚める爽やかレモンジュースなんかが、朝食には合うはずだ。

それがなぜ、ゴクゴクと飲めない渋い「お茶」が出されるのか。

 

熱いお茶をフゥフウ冷ましながらズズっとすする。

ーーあぁ、美味しい。

 

などとなるわけがない。そんなことも分からないのか、ウチのポンコツ両親は!!

小学生ながらも怒りで震える。これは虐待というやつじゃないか?好き嫌いの度を超えている。こんな仕打ちをされるとは、児童相談所へ駆け込むべきでは?

 

とりあえず冷静に父親に問いかける。

「猫舌なんで、熱くてお茶が飲めないんだけど」

すると父親は驚きの返事をした。

「遠慮せず水を飲めばいい。蛇口をひねればいくらでも出てくる。ありがたいことだ」

 

ムカつきすぎて全身がワナワナする。

子どもだからとバカにするな。単純に「温度」のことを言っているのではない。お茶のような飲みにくい飲み物を小学生に出すな、と遠回しに訴えているのだ。

貴様ら老人はお茶で十分だ。だが小学生たるものはゴクゴク、ガブガブ大量の水分を欲している。ましてや一日の始まりである朝に、すすらなければ飲めないような熱くて苦い液体を飲ませるなど、虐待としか思えないーー。

 

わたしは子どもとして主張する。

「普通、朝はジュースとかヤクルトみたいなものを飲むんだよ、子どもは」

すると父も負けじとこう返す。

「ほう、どこの子どもが普通なんだ?」

このオッサンは偏屈で論破するのが得意なタイプゆえ、一筋縄ではいかない。

「どこでもだよ。少なくとも、熱い緑茶を朝食に出してくる家なんてないね」

これはまっとうな意見だろう。日本全国の小学生を抱える家庭で、嫌がる子どもに朝から熱いお茶を飲ませる親など、いるはずがない。

「じゃあみんながすることをお前もするのか?」

デタデタ、出たよこの屁理屈的な論点のずらし方。こうしてわたし(小学生)をやり込めるのが、ヤツの常套手段なのだ。

やめた。これはバカバカしいし時間がもったいない。

 

こうしてわたしの朝は不機嫌な状態で始まる。ちなみに不機嫌な理由はお茶だけではない、米についても毎日文句を垂れていた。

ウチはなぜか、毎食「玄米」だった。

最初は貧乏だからだと思っていた。普通の家は美味しそうな白米を食べているのに、ウチは茶色でパサパサした変な米(玄米)を食べさせられているのだから。

 

とはいえ貧乏なのに贅沢を言っては申し訳ない、と我慢をしていたある日。

「残したらもったいないでしょ、玄米高いのに」

母親の言葉に驚愕した。

ーーこのクソマズイ米が高いだと??ではなぜ安い白米にしない??

 

そこから大げんかに発展した。

親の主張は、

「親の出す食べ物に文句つけるんじゃない、出されたものを黙って食べなさい!」

というもの。それに対して子どもの主張は、

「子どもらしい食べ物を出せ!こんな老人か健康マニアしか食べないようなものを、小学生が美味い美味いと食べるはずないだろう!」

というもの。

 

今思い返しても、自分の意見が間違っているとは思えない。「子どもは子どもらしく」などと都合のいい時ばかり使う言葉を、そっくりそのまま返してくれよう。

 

こうして罪なき緑茶と玄米は、わたしの嫌いな飲食物リストに必然的に追加されたのだ。

 

 

先日、友人から突然「新茶(静岡牧之原茶)」が送られてきた。

新茶というなら旧茶もあるのか、などとくだらないことを考えながら、礼を言うためにも封を開ける。

「新茶の淹れ方」に書かれている順に従って、ほぼ生まれて初めて自らお茶を淹れた。

 

湯飲みがないので、アメリカ製のマグカップにアツアツのお茶をたっぷりと注ぐ。マグカップでお茶、というのも悪くない。外国人がジャパニーズグリーンティーを飲むならば、きっとこうするだろう。

 

ーーうまい。

 

友人の幼馴染が作ったお茶だそう。それだけでも親近感が湧き、なんだかおいしく感じるから不思議だ。

 

あぁ、わたしも年を取ったのだ。

 

 

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