動物的な野生児と頭脳明晰なADHD

 

この世で成功するのは、圧倒的に「人付き合いが上手い奴」である。他人からどう思われようが「世渡り上手」という言葉が示すとおり、自分自身が幸せだったり成功したりすれば人生万々歳なのだ。

無論、突出した才能があれば別の話だが、とはいえ才能を見出す誰かに出会うことなく埋もれてしまえば、その才能すらもあってなかったようなものとなる。だからこそ、より充実した人生を送りたいならば、多くの人に愛され慕われるタイプになる(でいる)ことが、重要ということになる。

 

その点、わたしは完全なる勝者といえる。いかんせん、自身の周囲を有能かつ品のある優れた面々で固めているため、いかにわたしが粗野で稚拙で浅学非才(せんがくひさい)であっても、それを補いなお余りあるほどの恩恵によりカバーされているからだ。

親の七光りという言葉があるが、わたしにとっては「友の七光り」である。自分自身は大したことのない凡人であるにもかかわらず、多くの優秀な友が担保となり「きっとこのヒトも凄いんだろう」と勘違いされることで、なんとなくいい人生を歩ませてもらっているわけで。

もちろん、才能あふれる魅力的な人物と仲がいいからといって、他人の褌(ふんどし)で相撲を取るような真似はしない。そんなことよりも、もっともっと友人が評価され脚光を浴びるようになれば、今まで以上に”友人自慢”ができるわけで、そのほうがわたしにとっても嬉しいし心地良い。よって、彼ら彼女らの成功・成長こそがわたしの財産であり喜びとなるのだ。

 

そんなあるとき、ひょんなことからプライベートな相談を持ち掛けられる出来事があった。その相手とは、正直そこまで仲が良いわけではないし、突如わたしにコンタクトを取ってきた勇気というか行動力は、意外を通り越してむしろ奇妙な感覚だった。

 

当該友人は、物事の本質を見抜く慧眼を持っており、脳内はロジカルかつ現実主義者で結果を重視する左脳派タイプ。ゆえに、傍から見ると芯が強く物怖じしない自信家なのだが、その反面、本人が自覚するとある弱点に悩んでいた。それは、「ヒトの心が良く分からない」ということだった。

典型的なADHDの症状なのだが、自分の思ったことはズバズバ発言できるも、相手がどんな気持ちでいるのか、またはどんな気持ちになるのかを想像するのが難しいため、図らずも残念な結末を迎えた交友関係が過去にいくつもあったのだろう。

といっても、そのことをわたしに相談したかったわけではなく、社労士のアドバイスを求めるべくコンタクトをとってきたのが当初の目的だが、話の流れで本人が抱くコンプレックスに触れる瞬間があり、そこでわたしはピンときたのだ。あぁ、だからわたしだったのか・・と。

 

わたしは、どちらかというとヒトというより野生動物に近い感性を持っている。その証として、食べ物を与えられれば従順に懐くし、現実的にも比喩的にも「鼻が利く」という特徴がある。さらに、今までの人生で人を見誤ったことはなく、表面上どれほど着飾ろうがその者の真の姿を見抜けることからも、好き嫌いがかなりハッキリしている。

ちなみに、脳みそ的には極度の記憶障害(超部分的)があったり論理的な思考に欠けていたりと、左脳に問題を抱える一方で、直観力に長けていることや他人の表情や感情を読むのが得意など、右脳に関しては自信がある。そんな動物的なわたしだからこそ、左脳派の友人がおびき寄せられたのだ。

 

ヒトには生まれながらに備わった嗅覚がある。もちろん、比喩的な意味での嗅ぎ分ける力だが、科学的には証明できずともなぜか惹かれる感覚——というか、自分に不足している「何か」を補うために、それを持っている人物に自ずと引き寄せられる傾向にある。

だからこそ、必要な時に必要な出会いがあるのだ。しかも不思議なことに、容量的な過不足もなければ早すぎることも遅すぎることもなく、ちょうどいいタイミングで最適な人物と遭遇するから恐ろしい。これはもはや、「見えない力で操られている」と説明されたほうが納得がいくほど絶妙な出会いであり、「Connecting the dots(点と点をつなぐ)」の際たるものだろう。

 

自分になければ他人で補えばいい——わたしはそうやって生きてきた。誰もが必ずしもゼネラリストである必要はないどころか、むしろ何かに突出したスペシャリストが複数人集まっているほうが、信頼度も安定感も増すというのが現実である。

よって、野性味あふれる蛮族の代表(わたし)におびき寄せられたADHDの優秀な友人の未来が、より濃密で充実したものとなることを切に願う。なぜなら、その未来こそがわたしが生きる上での肥やしとなるからだ。

 

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