わたしは、出来ないことがあったら「そのまま放置する」ことにしている。放置・・というと聞こえが悪いが、どちらかというとわたしは"すぐに出来るタイプ"のため、逆を返すと「すぐに出来ない」イコール「ずっと出来ない」あるいは「しばらく時間がかかる」ということになる。いずれにせよ、ある程度の期間はどんよりとした気分で過ごすことになるわけで、それらをスッキリさせたいがために"ロジカルに納得させること"をしないようにしており、それはすなわち"放置"を意味するのだ。
だからこそ、出来ないことと向き合っている瞬間は、大根おろし器で大根をガシガシ削っている気分——そう、精神と神経をガシガシすりおろしている気分なのである。
運動でも勉強でも趣味でもなんでも同じだと思うが、わたしにとって出来ないことの断トツは"ピアノ"。人生をやり直す覚悟で再開したピアノだが、まさかこんなにも出来ないことだらけだったとは思いもよらなかった。まぁ、そのくらい見込みが甘い上に自惚れていたわけだが、それでも楽しむ目的で始めたわけではないので、いばらの道を裸足で歩き続けている。
とはいえ、出来ないなりにも「ちょっとは出来る」というケースもあるので、そういうものは「出来る方向にむかっているので、これは出来る」というカテゴライズをしている。・・いやいや、まだ出来てないだろ!とツッコみたいところだが、それでもゴールが近いことは確かなので、出来る・出来ないの二択ならば「出来る」なのだ。
しかしながら、これは本当に出来るのだろうか・・という不安と絶望しか感じられないケースもあり、そういう場合は当たり前だが「出来ない」にカテゴライズされる。そんな"恐怖の断崖絶壁"と向き合う日々が始まると、願わくば目を逸らしたいし避けて通りたいと思いながらも、この断崖絶壁をクリアするために「あれこれ考えない」ことにしているのだ。
普通ならば、難攻不落を突破するための攻略を考えたり、今の自分に何が足りないのかを顧みたりと、状況を打破するための方法を検討するだろう。だがわたしは、そうやって安心することが嫌なのだ。
正確には、「こうすれば出来るかもしれない」と脳内でイメージしたことを、すぐに実行できない状況を作りたくない・・という感じ。なぜなら、ヒトというのは少しでも期待が持てると、その瞬間に気持ちが楽になるわけで、そんな「絶望から解放される瞬間」を作りたくないのである。
如何せん自分に甘いわたしは、少しでも楽になると「あぁ、よかった!」と肩の荷が下りた気分になり、それと同時に事の重大さすら半減させてしまう傾向にある。この甚だしい勘違いが、わたしの成長を妨げる要因であり、謹厳さをも削る悪癖だと分析している。
だからこそ、出来ない事実をむき出しの状態で放置することにより、恐怖と絶望を常に感じて怯え続けるのだ。そしてロジカルに片付けようとせず、傷口に塩を塗るかのような古典的かつバカげたやり方で、いつか出来るようになるまで体当たりし続けるのだ。
そしていつか断崖絶壁を突破できたとき、心の底から「出来た!」と実感するわけで、これこそが逃げも隠れもせず対峙した結果なのだ・・と、ちょっとした自己満足に浸るのである。
これはすなわち、「寝ても覚めても、出来ないことを考えている」と同じ意味を持つ。物に例えると、どこかへ片付けてしまうど整理整頓できたことに満足して忘れてしまうのと同じで、それをさせないためにも常に気持ちを尖らせて追い詰めて、"出来ない"という現実から逃げられない状況をあえて作り出すのだ。
だからこそ、毎日嫌な気持ちで過ごさなければならないし、不安と自己嫌悪に苛まれて生きいなければならない。それでも、目を逸らしたらゴールは遠のくし、そんなにも楽がしたいのならばピアノなど再開しなければよかったわけで——。
(でも、マジでずっと出来なかったら、わたしの人生地獄だな・・・)
とはいえ、結果的に「出来るようにはならなかった」という事実が得られるだけでも、トライし続けた甲斐があるというもの。それはそれで、いい人生だったといえるだろう(願わくば、そうあってほしくないが)。
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