優先席に落ちていた誰かのSuicaと私

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(こ、これは試されているのか・・)

さほど混んではいない南北線の車内で、わたしは何者かに試されようとしていた。一両目の4番ドアから乗り込んだわたしは、ガラガラの優先席に座ろうとした。

 

ここは溜池山王駅で、わたしが降りるのは3つ目の白金高輪駅。立っていたって疲れるような距離と時間でもないし、わざわざ座るほどのことでもない。

しかし、個人的な意見ではあるが、空いている車内でわざわざ立っている必要はない。シートがガラガラならば、とりあえず腰を下ろすのがある種のマナーといえるからだ。

急ブレーキの際の安全保持や、通路やドア付近に立たれることの邪魔さを考えたら、己のプライドよりも乗客らと足並みを揃えることこそが、公共交通機関におけるルールだろう。

 

さらにわたしは、重たいリュックを背負っているため、できれば座って膝の上に乗せたかった。カッコつけて立ち尽くす必要もないし、安全確保の観点からも着するべきである。

(人より厚みのあるカラダだから、誰も座っていない優先席に座らせてもらおう)

一般席には乗客がチラホラ座っているが、わざわざその空間を埋めるくらいならば、優先席を必要とする人が乗ってくるまでは、ここに座らせてもらおうじゃないか。おまけにドアからも近いので、乗り降りにも便利である。

こうしてわたしは、優先席に腰を下ろそうとした。

 

と、そのとき——

 

なぜか座席の真ん中に、ピンク色のパスケースが放置されていた。使い込まれて色の剥げたゴールドのチェーンが付いており、デザイン的にも若年層の女性のものだと思われる。

そして中にはSuicaが入っている。つまり、ここに座っていた誰かがパスケースを落としたことに気付かず下車してしまったのだ。

 

(どうせ白金高輪止まりだし、放っておいても駅員が回収するだろう・・)

 

今どきの「親切(恩)を仇で返す風潮」のあおりを喰らわないためにも、わたしは知らんふりをして端っこに座った。そして、小さくなってスマホをいじりながら、存在感を消していた。

すると次の駅で女性が乗ってきた。しばらく車内を見渡してから、わたしと同じく優先席へと歩を進めた。

 

わたしは足元に目をやりながら、この女性があのパスケースをどうするのかを観察した。そして腰を下ろそうとした瞬間、やはりパスケースに気が付いた女性。チェーン部分をつまみ上げると、わたしと彼女の間へソッとずらして着席した。

(まぁ、そうするよな・・)

とはいえあと2駅で終点だ。このパスケースともおさらばとなるし、もう忘れてしまおう。

 

しかし、改札手前でSuicaがないことに気付いた持ち主は、いったいどうやって改札を出たのだろう?乗車駅を証明するものもないし、もしもわたしのように現金の類を一切持ち歩いていなかったら、どうやって運賃を払ったのだろうか?いや待てよ、わたしが乗った手前の駅で降りたとすると、そこでSuicaがないことに気付き駅員に相談をする。そして駅員が落とし物の確認をするべく、そこから間に合うであろう駅に連絡をし、その駅の駅員が座席を確認するかもしれない。であればこれはこのままにしておく方が安全確実だろう。どのみちあと数分で終点だから、落とし主は帰宅前にSuicaを取り戻すことができるはずだ——。

 

その時、わたしの足元に白い紙がヒラリと滑り込んだ。さっき乗り込んで来た女性のカバンからこぼれ落ちた模様。チラッと横目で彼女を見るも、紙が落ちたことに気付いていない。しかたない、拾ってやるか——。

「これ、落ちましたよ・・・って、いらない紙かな?」

軽く笑いながら、表裏真っ白の紙っぺらを手渡した。女性も苦笑いで礼を述べると、待ってましたとばかりに「あの・・」と話しかけてきた。

「これ、違いますよね?」

パスケースを指さしながら尋ねる。「もちろん、違うよ」と答えながら、わたしは流れでパスケースを手に取った。するとSuicaには名前が書かれてある。——通勤か通学で使っているのか。

「なんか記名あるし、白金高輪で降りるから駅員に届けておくね」

なぜかわたしは、正義感を振りかざしてパスケースを握りしめた。女性は目を輝かせながら「お願いします」と微笑む。それを受けて「うん」と大きく頷くわたしと彼女の間には、なんらかの強い絆で結ばれたかのような一体感が流れた。

 

こうして白金高輪駅に着くと、混みあうエスカレーターを避けてわたしは階段を全速力で駆け上った。そして改札で駅員に事情を説明しパスケースを預けた。

(これで落とし主は、無駄な出費をせずに帰宅できるだろう。めでたしめでたし・・・じゃねぇんだよ!なぜ駅員はわたしの名前や連絡先を聞かない?これじゃ落とし主がお礼をしたくても、どこの誰だか分からないじゃないか!)

完全に見返りを期待していた邪心まみれのわたしは、舌打ちしながら改札を出たのである。

 

Illustrated by 希鳳

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