運の良し悪しで、人生は続いたり終わったりするわけで

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一か月前、陸上自衛隊・北富士演習場での手りゅう弾投てき訓練中に、自衛隊員が死亡するという事故の報道があった。記事によると「(手りゅう弾の)爆発の勢いで飛んできた破片が、死亡した隊員の首や顔に当たり、病院へ搬送されるも二時間後に死亡が確認された」ということで、これだけの情報ではなぜ事故が起きたのかは憶測の域を出なかった。

案の定、元自衛官を名乗るネット民らは"(投てき後に)退避が遅れたのだろう"とか"退避の手順を間違えたのだろう"などなど、自らの経験を元に様々な見解が飛び交っていた。

 

しかし実際のところ、訓練内容に問題はなかった上に、退避のタイミングも行動もすべて正しかったのだそう。陸上自衛隊の友人によると、

「ちゃんと、爆発から身を守るための土嚢の後ろに隠れたんですよ。でも破片が飛んできたんですよ」

とのこと。土嚢の中身を突き破って飛んできた・・とでもいうのか?

「積んである土嚢と土嚢の間の、ほんのちょっとの小さな隙間を貫いて飛んできたらしいです。それが運悪く、隠れていた3曹の首に刺さって・・頸動脈を切ったんでしょうね」

 

——なんという不運が重なった事故だろうか。訓練自体に問題はなく、隊員の行動にも問題はなかった。それなのに、土嚢と土嚢のわずかな隙間を縫うかのごとく、爆発の威力で飛び散った破片が侵入してきたのだ。しかもそれが、運悪く隊員の頸動脈を傷つけてしまうという、回避不可能な事故だったわけだ。

あと数センチずれていれば、それこそ無傷で終わったかもしれない。仮に、体のどこかに刺さったとしても、命を奪われるほどの致命傷にはならなかったかもしれない。タラレバを言い始めたらキリがないが、それでも、やるべきことはすべて実行したにもかかわらず事故は起きてしまったのだ。

 

しかしながら、よくよく考えてみれば人生は"奇跡の連続"といえる。

満員電車でおっさんの肘がわたしの顔付近をフラフラしていることがあるが、もしも急ブレーキなどでアレがわたしの目を直撃したならば、それこそ網膜裂孔・・あるいは網膜剥離の恐れがある。

事実、このような日常的な不運(というか衝撃)で、網膜が剥離した患者は山ほどいる。中には、新婚旅行に向かう機内で見え方に異変を感じ、ハネムーン先からとんぼ返りするや否や、緊急オペを行った患者もいるのだそう。

その結果、失明したり視力や視野が著しく低下したりしたら、それこそ幸せの絶頂から奈落の底へ突き落されたようなものだ。それでも、これもまた避けようのない現実といえるだろう。

 

無論、ハネムーンで飛行機に乗らなければ、気圧の変化による網膜剥離は避けられるかもしれない。だが、台風の影響で気圧が変化し、網膜に異変が起こらないとも限らないのだ。実際に、「台風が接近すると、なぜか飛蚊症を訴える患者が増える」と主治医が漏らしていたから、なんらかの因果関係がないとも言い切れないわけで。

それこそ、マンションの階段から転落するかもしれないし、駅のホームでドミノ倒しに遭うかもしれない。あるいは、高齢者の暴走運転に突っ込まれるかもしれないし、モチをのどに詰まらせて静かにこの世を去るかもしれない。

どんな些細な原因であっても、そのどれかに引っ掛かればヒトは死ぬ運命。だからこそ、運が悪かった・・ということは往々にして起こりうるのである。

 

——そういえば小学生の頃、自分には不思議な力が宿っているに違いない・・と思い込んだわたしは、目を閉じて自転車を漕いだことがある。河というか土手に向かって漕いでいたのだが、「もうそろそろか?」というタイミングで、それとなくブレーキを握るとそっと目を開けた。すると、目の前は土手どころか河が広がり、自転車のタイヤの半分が土手からはみ出ていたのである・・・あと数センチで、わたしは河川敷へと一気に転落していたわけだ。

(いま思い出しただけでもゾッとする・・・くわばら、くわばら)

 

 

ありふれたごく普通な日常こそ、大切に過ごすべきである。

 

Illustrated by 希鳳

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