これは、「慣れていないから」といった経験値の差ではなく、生来ヒトに備わった感覚的なものだと思う。なんの話かというと、「読書も楽譜も、紙でなければならない!」という奇跡のような真実についてである。
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最近になってようやく、「読書は紙でするべき」という研究結果が広まってきたが、同じ”文字”を読解するのに紙もデジタルも違いはないのでは・・と思いたくなる半面、誰もが「紙のほうが記憶に残りやすい」とか「デジタルだと集中できないし疲れやすい」という経験があるのではなかろうか。
正直なところ、情報収集が目的ならばインターネットで迅速に処できるデジタルを選ぶが、「読書」となると話は別。言語学か脳科学者の発言だったと思うが、
「読書は、単に『読んで理解する』というだけでなく、読むという行為を楽しんだり、著者や登場人物の体験や感情を共有したり、コミュニケーションのような要素が真の価値といえる」
というような内容を聞いて、「なるほど!」と膝を打った記憶がある。
なぜ膝を打ったのかというと、言われてみれば「読書と譜読み」は酷似している—— という事実に気が付いたからだ。
語弊はあるが、「譜読みができなければ、曲を演奏することはできない」と言ってもいいだろう。
その理由として、楽譜に記された音符や記号というのは「演奏に必要な情報の連続」という要素だけではなく、その曲が誕生するにあたり、作者が抱える苦悩や葛藤が盛り込まれていたり、戦争や貧困といった当時の時代背景が象徴されていたり、はたまた煌びやかな舞踏会に花を添えるエッセンスの役割だったりと、すべての作品に「音符」以上の想いや意図が込められているからだ。
そしてわたしたち奏者は、作曲者が見て聞いて感じてきた「世界」というものを、曲を通して体験するのが目的であり、それこそが演奏の真髄である・・ということを師匠から教わった。だからこそ、「ノーミスで、速いテンポで、自分らしく弾ければオッケー!」という考え方は、かなり残念で無意味な演奏といえるのだ。
なぜ、あえてこの和声にしたのか? なぜ、ここでクレッシェンドするのか? なぜ、同じフレーズを二度用いたのか?——正解は作曲をした本人にしか分からないが、楽譜に記されたヒントを用いて脳内に景色を描くことで、自ずと見えてくる「答え」がある。
それは、正解・不正解といった二元論的な安っぽいものではなく、曲を通じて作者が描く世界を共有させてもらう——そんな「貴重な体験」こそが答えなのである。そのためにも、情緒が豊かでなければならないし、内面に秘めた感情を表に出す術を身に着けていなければならない。
そんな様々なテクニックを駆使して、作者が残してくれた一曲の世界を疑似体験させてもらうことが、音楽を演奏することの喜びであり楽しみなのである。
そして、このような体験に臨むにあたり、「楽譜の素材が何でできているか」ということが予想以上に重要であることを、今さらながら思い知ったのだ。
単に、音符やアーティキュレーションを読むだけなのだから、それが電子楽譜であろうが紙の楽譜であろうが大した違いはない・・と思っていたわたし。おまけに、持ち運びや書き込む際に電子楽譜のほうが便利で使いやすいので、率先してこちらを使用してきたわけで。
無論、使っている間はなんとも思わないし、楽譜をめくる際にもウインク一つで進めたり戻したりできるので、非常に便利だと感じていた。それこそ、楽譜によっては紙の重さでページが閉じてしまうので、スマホかなにかを”重し”として置いておかなければならない・・という古典的なストレスからも開放され、快適なピアノ練習に満足していた。
ところが、ふと紙の楽譜を開いてみて感じたことがある——なんて見やすいんだ。
均一ではない紙面のちょっとしたデコボコや、照明具合によってはやや暗くなる箇所など、決して「見やすい」要素で出来ているわけではない。にもかかわらず、楽譜がスッと頭に入ってくる・・いや、胸に落とし込まれるこの感覚は、いったい何なんだ。
さらに、あれほど面倒くさがっていた譜めくりについても、「ページをめくれば次の場面が展開される・・」という期待というか高揚感があり、”物理的にページをめくる”という無駄な作業が、まさかの”ヒトの心理に影響を及ぼす”ということを知ったのである。
なによりも、その曲が示したい(伝えたい)世界観というものが、紙面からは伝わってくるではないか。デジタルの画面からはまったく感じなかったザラつきや温度のようなものを、紙の楽譜からは察知できるという不思議——これこそが奇跡であり真実なのだろう。
小説などで「物語の疑似体験をする」ということは、単に文字の羅列を理解することとは異なる。自分と重ね合わせてみたり未知の体験を想像してみたり、想像の世界で触れあうことこそが「作品を堪能する」ということなのだろう。
そのためには五感をフルに使う必要があり、デジタルでは決して届かない領域というわけか——そんなことを、紙の楽譜を眺めながら強く確信するのであった。
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いつまで経ってもヒトが生身の人間である限り、フィジカル環境が持つ意味や重要性が失われることはないだろう。




















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